いうわけでもないのかい。」豚があんまり陰気《いんき》な顔をしたものだから校長は急いで取り消しました。
それから農学校長と、豚とはしばらくしいんとしてにらみ合ったまま立っていた。ただ一言も云わないでじいっと立って居《お》ったのだ。そのうちにとうとう校長は今日は証書はあきらめて、
「とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまわらんでね。」例の黄いろな大きな証書を小わきにかいこんだまま、向うの方へ行ってしまう。
豚はそのあとで、何べんも、校長の今の苦笑やいかにも底意のある語《ことば》を、繰《く》り返し繰り返しして見て、身ぶるいしながらひとりごとした。
『とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまわらんでね。』一体これはどう云う事か。ああつらいつらい。豚は斯う考えて、まるであの梯形《ていけい》の、頭も割れるように思った。おまけにその晩は強いふぶきで、外では風がすさまじく、乾《かわ》いたカサカサした雪のかけらが、小屋のすきまから吹きこんで豚のたべものの余りも、雪でまっ白になったのだ。
ところが次の日のこと、畜産学の教師が又やって来て例の、水色の上着を着た、顔の赤い助手といつものするどい眼付して、じっと豚の頭から、耳から背中から尻尾《しっぽ》まで、まるでまるで食い込むように眺めてから、尖《とが》った指を一本立てて、
「毎日|阿麻仁《あまに》をやってあるかね。」
「やってあります。」
「そうだろう。もう明日だって明後日《あさって》だって、いいんだから。早く承諾書をとれぁいいんだ。どうしたんだろう、昨日校長は、たしかに証書をわきに挟《はさ》んでこっちの方へ来たんだが。」
「はい、お入りのようでした。」
「それではもうできてるかしら。出来ればすぐよこす筈《はず》だがね。」
「はあ。」
「も少し室《へや》をくらくして、置いたらどうだろうか。それからやる前の日には、なんにも飼料《しりょう》をやらんでくれ。」
「はあ、きっとそう致します。」
畜産の教師は鋭い目で、もう一遍《いっぺん》じいっと豚を見てから、それから室を出て行った。
そのあとの豚の煩悶《はんもん》さ、(承諾書というのは、何の承諾書だろう何を一体しろと云うのだ、やる前の日には、なんにも飼料をやっちゃいけない、やる前の日って何だろう。一体何をされるんだろう。どこか遠くへ売られるのか。ああこれはつらいつらい。)豚の頭の割れ
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