》に拍手しました。その人はぶるぶるふるえる手でコップに水をついでのみました。コップの外へも水がすこしこぼれました。そのふるえようがあんまりひどいので私は少し神経病の疑《うたがい》さえももちました。ところが水をのむとその人は俄かにピタッと落ち着きました。それからごくしずかに何か云いそうに口をしましたがその語《ことば》はなかなか出て来ませんでした。みんなはしんとなりました。その人は突然《とつぜん》爆発《ばくはつ》するように叫《さけ》びました。二三度どもりました。
「な、な、な何が故《ゆえ》に、何が故に、君たちはど、ど、動物を食わないと云いながら、ひ、ひ、ひ、羊、羊の毛のシャッポをかぶるか。」その人は興奮の為にガタガタふるえてそれからやけに水をのみました。さあ大へんです。テントの中は割《さ》けるばかりの笑い声です。
陳氏ももう手を叩《たた》いてころげまわってから云いました。
「まるでジョン・ヒルガードそっくりだ。」
「ジョン・ヒルガードって何です。」私は訊《たず》ねました。
「喜劇役者ですよ。ニュウヨーク座の。けれどもヒルガードには眉間にあんな傷痕《きずあと》がありません。」
「なるほど。」
そのあとはもう異教徒席も異派席もしいんとしてしまって誰《たれ》も演壇に立つものがありませんでした。祭司次長がしばらく式場を見まわして今のざわめきが静まってから落ちついて異教徒席へ行きました。ほかにお立ちの方はありませんかとでも云ったようでしたが誰もしんとして答えるものがありませんでしたので次長は一寸《ちょっと》礼をして引き下がりました。
「すっかり参ったようですね。」陳氏が私に云いました。私も実際|嬉《うれ》しかったのです。あんなに頑強《がんきょう》に見えたシカゴ軍があんまりもろく粉砕《ふんさい》されたからです。斯《こ》う云ってはなんだか野球のようですが全くそうでした。そこで電鈴《でんれい》がずいぶん永く鳴りました。そのすきとおった音に私の興奮した心はもう一ぺん透明《とうめい》なニュウファウンドランドの九月というような気分に戻《もど》りました。みんなもそうらしかったのです。陳氏は
「私はもう一発やって来ますから。」と云いながら立ちあがって出て行きました。
その時です。神学博士がまたしおしおと壇に立ちました。そしてしょんぼりと礼をして云ったのです。
「諸君、今日私は神の思召《おぼしめし》のいよいよ大きく深いことを知りました。はじめ私は混食のキリスト信者としてこの式場に臨《のぞ》んだのでありましたが今や神は私に敬虔《けいけん》なるビジテリアンの信者たることを命じたまいました。ねがわくは先輩諸氏|愚昧《ぐまい》小生の如《ごと》きをも清き諸氏の集会の中に諸氏の同朋《どうぼう》として許したまえ。」
そして壇を下って頭を垂れて立ちました。
祭司次長がすぐ進んで握手《あくしゅ》しました。みんなは歓呼の声をあげ熱心に拍手してこの新らしい信者を迎《むか》えたのです。
すると異教席はもうめちゃめちゃでした。まっ黒になって一ぺんに立ちあがり一ぺんに壇にのぼって
「悔《く》い改めます。許して下さい。私どももみんなビジテリアンになります。」と声をそろえて云ったのです。
祭司次長がすぐ進んで一人ずつ握手《あくしゅ》しました。そして一人ずつ壇を下ってこっちの椅子に座《すわ》りました。歓呼と拍手とで一杯《いっぱい》でした。椅子が丁度うまい工合《ぐあい》にあったのです。何だかあんまりみんなうまい工合でした。そのとき外ではどうんと又一発陳氏ののろしがあがりました。その陳氏がもう入って来て私に軽く会釈してまだ立ちながら向うを見て云いました。
「おやおやみんな改宗しましたね、あんまりあっけない、おや椅子も丁度いい、はてな一つあいてる、そうだ、さっきのヒルガードに似た人だけまだ頑張《がんば》ってる。」
なるほどさっきのおしまいの喜劇役者に肖《に》た人はたった一人異教徒席に座って腕《うで》を組んだり髪を掻《か》きむしったりいかにも仰山《ぎょうさん》なのでみんなはとうとうひどく笑いました。
「あの男の煩悶《はんもん》なら一体何だかわからないですな。」陳氏が云いました。
ところがとうとうその人は立ちあがりました。そして壇にのぼりました。
「諸君、私は誤っていた。私は迷っていたのです。私は今日からビジテリアンになります。いや私は前からビジテリアンだったような気がします。どうもさっきまちがえて異教徒席に座りそのためにあんな反対演説をしたらしいのです。諸君許したまえ。且《か》つ私考えるに本日異教徒席に座った方はみんな私のように席をちがえたのだろうと思う。どうもそうらしい。その証拠《しょうこ》には今はみんな信者席に座っている。どうです、前異教徒諸氏そうでしょう。」
私の愕《おどろ》いたことは神学博士をはじめみんな一ぺんに立ちあがって
「そうです。」と答えたことです。
「そうでしょう。して見ると私はいよいよ本心に立ち帰らなければならない。私は或《あるい》はご承知でしょう、ニュウヨウク座のヒルガードです。今日は私はこのお祭を賑《にぎ》やかにする為《ため》に祭司次長から頼《たの》まれて一つしばいをやったのです。このわれわれのやった大しばいについて不愉快《ふゆかい》なお方はどうか祭司次長にその攻撃《こうげき》の矢を向けて下さい。私はごく気の弱い一信者ですから。」
ヒルガードは一礼して脱兎《だっと》のように壇を下りただ一つあいた席にぴたっと座ってしまいました。
「やられたな、すっかりやられた。」陳氏は笑いころげ哄笑《こうしょう》歓呼拍手は祭場も破れるばかりでした。けれども私はあんまりこのあっけなさにぼんやりしてしまいました。あんまりぼんやりしましたので愉快なビジテリアン大祭の幻想《げんそう》はもうこわれました。どうかあとの所はみなさんで活動写真のおしまいのありふれた舞踏《ぶとう》か何かを使ってご勝手にご完成をねがうしだいであります。
底本:「新編 銀河鉄道の夜」新潮文庫、新潮社
1989(平成元)年6月15日発行
1994(平成6)年6月5日13刷
入力:土屋隆
校正:高柳典子
2007年1月6日
青空文庫作成ファイル:
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