。これは何としても否定することができない。元来食事はただ営養をとる為のものでなく又一種の享楽《きょうらく》である。享楽と云うよりは欠くべからざる精神爽快剤《レフレッシュメント》である。労働に疲《つか》れ種々の患難《かんなん》に包まれて意気銷沈《いきしょうちん》した時には或《あるい》は小さな歌謡《かよう》を口吟《くちずさ》む、談笑する音楽を聴《き》く観劇や小遠足にも出ることが大へん効果あるように食事も又一の心身回復剤である。この快楽を菜食ならば著しく減ずると思う。殊に愉快に食べたものならば実際消化もいいのだ。これをビジテリアン諸氏はどうお考《かんがえ》であるか伺《うかが》いたい。」
 大へん温和《おとな》しい論旨《ろんし》でしたので私たちは実際本気に拍手しました。すると私たちの席から三人ばかり祭司次長の方へ手をあげて立った人がありましたが祭司次長は一番前の老人を招きました。その人は白髯《しろひげ》でやはり牧師らしい黒い服装《ふくそう》をしていましたが壇に昇《のぼ》って重い調子で答えたのでした。
「只今《ただいま》の御質疑に答えたいと存じます。
 植物性の脂肪や蛋白質の消化があまりよくないことは明かであります。さればといって甚《はなはだ》不良なのではなく、ただ動物質の食品に比して幾分《いくぶん》劣るというのであります。全然植物性蛋白や脂肪を消化しないという人はまあありますまい、あるとすればその人は又動物性の蛋白や脂肪も消化しないのです。さてどう云うわけで植物性のものが消化がよくないかと云えば蛋白質の方はどうもやっぱりその蛋白質分子の構造によるようでありますが脂肪の消化率の少いのはそれが多く繊維素《せんいそ》の細胞壁《さいぼうへき》に包まれている関係のようであります。どちらも次第《しだい》に菜食になれて参りますと消化もだんだん良くなるのであります。色々実験の成績もございますから後でご覧を願います。又病弱者老衰者嬰児等の中には全く菜食ではいけない人もありましょう、私どもの派ではそれらに対してまで菜食を強《し》いようと致《いた》すのではありません。ただなるべく動物|互《たがい》に相喰《あいは》むのは決して当然のことでない何とかしてそうでなくしたいという位の意味であります。尤も老人病弱者にても若《も》し肉食を嫌《きら》うものがあればこれに適するような消化のいい食品をつくる事に就《つい》ては私共只今充分努力を致して居るのであります。仮令《たとえ》ば蛋白質をば少しく分解して割合簡単な形の消化し易《やす》いものを作る等であります。
 第二に食事は一つの享楽である菜食によってその多分は奪《うば》われるとこれはやはり肉食者よりのお考であります。なるほど普通《ふつう》混食をしているときは野菜は肉類より美味しくないのですが、けれどももし肉類を食べるときその動物の苦痛を考えるならば到底《とうてい》美味しくはなくなるのであります。従って無理に食べても消化も悪いのであります。勿論《もちろん》菜食を一年以上もしますなれば仲々肉類は不愉快な臭《におい》や何かありまして好ましくないのであります。元来食物の味というものはこれは他の感覚と同じく対象よりはその感官自身の精粗《せいそ》によるものでありまして、精粗というよりは善悪によるものでありまして、よい感官はよいものを感じ悪い感官はいいものも悪く感ずるのであります。同じ水を呑《の》んでも徳のある人とない人とでは大へんにちがって感じます。パンと塩と水とをたべている修道院の聖者たちにはパンの中の糊精《こせい》や蛋白質|酵素《こうそ》単糖類脂肪などみな微妙《びみょう》な味覚となって感ぜられるのであります。もしパンがライ麦のならばライ麦のいい所を感じて喜びます。これらは感官が静寂《せいじゃく》になっているからです。水を呑んでも石灰の多い水、炭酸の入った水、冷たい水、又川の柔《やわ》らかな水みなしずかにそれを享楽することができるのであります。これらは感官が澄《す》んで静まっているからです。ところが感官が荒《す》さんで来るとどこ迄《まで》でも限りなく粗《あら》く悪くなって行きます。まあ大抵《たいてい》パンの本当の味などはわからなくなって非常に多くの調味料を用いたりします。則《すなわ》ち享楽は必らず肉食にばかりあるのではない。寧《むし》ろ清らかな透明な限りのない愉快と安静とが菜食にあるということを申しあげるのであります。」老人は会釈して壇を下り拍手は天幕《テント》もひるがえるようでした。祭司次長は立って異教席の方を見ました。異教席から瘠《や》せた顔色の悪いドイツ刈《が》りの男が立ちました。祭司次長は軽く会釈しました。その人も答礼して壇に上ったのです。その人は大へん皮肉な目付きをして式場全体をきろきろ見下してから云いました。
「今朝私
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