を食う、摂理で善である、私が怒《おこ》ってマットン博士をなぐる、摂理で善である、なぜならこれは現象で摂理の中のでき事で神のみ旨《むね》は測るべからざる哉と、斯うなる、私が諸君にピストルを向けて諸君の帰国の旅費をみんな巻きあげる、大へんよろしい、私が誰《たれ》かにおどされて旅費を巻きあげ損《そこ》ねそうになる、一発やる、その人が死ぬ、摂理で善である。もっと面白いのはここにビジテリアンという一類が動物をたべないと云っている。神の摂理である善である然るに何故にマットン博士は東洋流に形容するならば怒髪天を衝《つ》いてこれを駁撃《ばくげき》するか。ここに至って畢竟《ひっきょう》マットン博士の所説は自家撞着《じかどうちゃく》に終るものなることを示す。この結論は実にいい語《ことば》であります。これ然しながら不肖《ふしょう》私の語ではない、実にシカゴ畜産組合の肉食宣伝のパンフレット中に今朝拝見したものである。終に臨んで勇敢《ゆうかん》なるマットン博士に深甚《しんじん》なる敬意を寄せます。」
拍手は天幕《テント》をひるがえしそうでありました。
「大分|露骨《ろこつ》ですね、あんまり教育家らしくもないビジテリアンですね。」と陳さんが大笑いをしながら申しました。
ところがその拍手のまだ鳴りやまないうちにもう異教徒席の中から瘠《や》せぎすの神経質らしい人が祭壇にかけ上りました。その人は手をぶるぶる顫わせ眼もひきつっているように見えました。それでもコップの水を呑《の》んで少し落ち着いたらしく一足進んで演説をはじめました。
「マットン博士の神学はクリスト教神学である。且《か》つその摂理の解釈に於て少しく遺憾の点のあったことは全く前論士の如くである。然しながら茲《ここ》に集られたビジテリアン諸氏中約一割の仏教徒のあることを私は知っている。私も又実は仏教徒である。クリスト教国に生れて仏教を信ずる所以《ゆえん》はどうしても仏教が深遠だからである。自分は阿弥陀仏《あみだぶつ》の化身《けしん》親鸞僧正《しんらんそうじょう》によって啓示《けいじ》されたる本願寺派の信徒である。則《すなわ》ち私は一仏教徒として我が同朋《どうぼう》たるビジテリアンの仏教徒諸氏に一語を寄せたい。この世界は苦である、この世界に行わるるものにして一として苦ならざるものない、ここはこれみな矛盾《むじゅん》である。みな罪悪である。吾
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