います。太陽スペクトルの七色をごらんなさい。これなどは両端に赤と菫《すみれ》とがありまん中に黄があります。ちがっていますからどうも仕方ないのです。植物に対してだってそれをあわれみいたましく思うことは勿論です。印度《インド》の聖者たちは実際|故《ゆえ》なく草を伐《き》り花をふむことも戒《いまし》めました。然《しか》しながらこれは牛を殺すのと大へんな距離《きょり》がある。それは常識でわかります。人間から身体の構造が遠ざかるに従ってだんだん意識が薄《うす》くなるかどうかそれは少しもわかりませんがとにかくわれわれは植物を食べるときそんなにひどく煩悶《はんもん》しません。そこはそれ相応にうまくできているのであります。バクテリヤの事が大へんやかましいようでしたが一体バクテリヤがそこにあるのを殺すというようなことは馬を殺すというようなのと非常なちがいです。バクテリヤは次から次と分裂《ぶんれつ》し死滅《しめつ》しまるで速《すみや》かに速かに変化してるのです。それを殺すと云ったところで馬を殺すというようのとは大分ちがいます。又バクテリヤの意識だってよくはわかりませんがとにかく私共が生れつきバクテリヤについては殺すとかかあいそうだとかあんまりひどく考えない。それでいいのです。又仕方ないのです。但《ただ》しこれも人類の文化が進み人類の感情が進んだときどう変るかそれはわかりません。印度の聖者たちは濾《こ》さない水は呑みません。普通《ふつう》の布の水濾しでは原生動物は通りますまいがバクテリヤは通りましょう。まあこれらについてはいくら理論上何と云われても私たちにそう思えないとお答え致《いた》すより仕方ありません。やがて理論的にも又その通り証明されるにちがいありません。私の国の孟子《メンシアス》と云う人は徳の高い人は家畜《かちく》の殺される処又料理される処を見ないと云いました。ごく穏健《おんけん》な考であります。自然はそんなおとしあなみたいなことはしませんから。私共は私共に具《そな》わった感官の状態私共をめぐった条件に於《おい》て菜食をしたいと斯《こ》う云うのであります。ここに於て私は敢《あえ》て高山に遁《に》げません。」陳氏は嵐《あらし》のような拍手《はくしゅ》と一緒《いっしょ》に私の処へ帰って来ました。私が陳氏に立って敬意を示している間に演壇にはもう次の論士が立っていました。
「諸君、しずか
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