た。倉庫《そうこ》の屋根《やね》もあんまりのその怒りように、まさかこんなはずではなかったと言うように少しあきれて、だまってその顔を見ていました。お日さまはずうっと高くなり、シグナルとシグナレスとはほっとまたため息《いき》をついてお互《たが》いに顔を見合わせました。シグナレスは瞳《ひとみ》を少し落《お》とし、シグナルの白い胸《むね》に青々と落ちた眼鏡《めがね》の影《かげ》をチラッと見て、それからにわかに目をそらして自分のあしもとをみつめ考え込《こ》んでしまいました。
今夜は暖《あたた》かです。
霧《きり》がふかくふかくこめました。
その霧を徹《とお》して、月のあかりが水色にしずかに降《ふ》り、電信柱も枕木《まくらぎ》も、みんな寝《ね》しずまりました。
シグナルが待《ま》っていたようにほっと息《いき》をしました。シグナレスも胸《むね》いっぱいのおもいをこめて、小さくほっといきしました。
その時シグナルとシグナレスとは、霧の中から倉庫の屋根の落ちついた親切らしい声の響《ひび》いて来るのを聞きました。
「お前たちは、全《まった》くきのどくだね、わたしたちは、今朝うまくやってやろうと思ったんだが、かえっていけなくしてしまった。ほんとにきのどくなことになったよ。しかしわたしには、また考《かんが》えがあるから、そんなに心配《しんぱい》しないでもいいよ。お前たちは霧《きり》でお互《たが》いに顔も見えずさびしいだろう」
「ええ」
「ええ」
「そうか、ではおれが見えるようにしてやろう。いいか、おれのあとについて二人いっしょにまねをするんだぜ」
「ええ」
「そうか。ではアルファー」
「アルファー」
「ビーター」「ビーター」
「ガムマー」「ガムマーアー」
「デルター」「デールータァーアアア」
実《じつ》に不思議《ふしぎ》です。いつかシグナルとシグナレスとの二人は、まっ黒な夜の中に肩《かた》をならべて立っていました。
「おや、どうしたんだろう。あたり一面《いちめん》まっ黒びろうどの夜だ」
「まあ、不思議《ふしぎ》ですわね。まっくらだわ」
「いいや、頭の上が星でいっぱいです。おや、なんという大きな強い星なんだろう。それに見たこともない空の模様《もよう》ではありませんか、いったいあの十三|連《れん》なる青い星はどこにあったのでしょう、こんな星は見たことも聞いたこともありませんね、僕《ぼく》たちぜんたいどこに来たんでしょうね」
「あら、空があんまり速《はや》くめぐりますわ」
「ええ、ああ、あの大きな橙《だいだい》の星は地平線《ちへいせん》から今上ります。おや、地平線じゃない。水平線かしら。そうです。ここは夜の海の渚《なぎさ》ですよ」
「まあ奇麗《きれい》だわね、あの波《なみ》の青びかり」
「ええ、あれは磯波《いそなみ》の波がしらです、立派《りっぱ》ですねえ、行ってみましょう」
「まあ、ほんとうにお月さまのあかりのような水よ」
「ね、水の底に赤いひとでがいますよ。銀水《ぎんいろ》[#「銀水《ぎんいろ》」はママ]のなまこがいますよ。ゆっくりゆっくり、這《は》ってますねえ、それからあのユラユラ青びかりの棘《とげ》を動かしているのは、雲丹《うに》ですね。波が寄《よ》せて来ます。少し遠のきましょう」
「ええ」
「もう、何べん空がめぐったでしょう。たいへん寒《さむ》くなりました。海がなんだか凍《こお》ったようですね。波はもう、うたなくなりました」
「波《なみ》がやんだせいでしょうかしら。何か音がしていますわ」
「どんな音」
「そら、夢《ゆめ》の水車のきしりのような音」
「ああそうだ。あの音だ。ピタゴラス派《は》の天球運動《てんきゅううんどう》の諧音《かいおん》です」
「あら、なんだかまわりがぼんやり青白くなってきましたわ」
「夜が明けるのでしょうか。いやはてな。おお立派《りっぱ》だ。あなたの顔がはっきり見える」
「あなたもよ」
「ええ、とうとう、僕《ぼく》たち二人きりですね」
「まあ、青白い火が燃《も》えてますわ。まあ地面《じめん》と海も。けど熱《あつ》くないわ」
「ここは空ですよ。これは星の中の霧《きり》の火ですよ。僕たちのねがいがかなったんです。ああ、さんたまりや」
「ああ」
「地球《ちきゅう》は遠いですね」
「ええ」
「地球はどっちの方でしょう。あたりいちめんの星、どこがどこかもうわからない。あの僕のブッキリコはどうしたろう。あいつは本当はかあいそうですね」
「ええ、まあ、火が少し白くなったわ、せわしく燃えますわ」
「きっと今秋ですね。そしてあの倉庫《そうこ》の屋根《やね》も親切でしたね」
「それは親切とも」いきなり太《ふと》い声がしました。気がついてみると、ああ、二人ともいっしょに夢《ゆめ》を見ていたのでした。いつか霧《きり》がはれてそら一めんの星
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