でした。実にそれはロバートとでも名の附きさうなもぢゃもぢゃした大きな犬でした。
「あゝ、いゝな。」私どもは一度に叫びました。誰《たれ》だって夏海岸へ遊びに行きたいと思はない人があるでせうか。殊にも行けたら、そしてさらはれて紡績工場などへ売られてあんまりひどい目にあはないなら、フランスかイギリスか、さう云ふ遠い所へ行きたいと誰も思ふのです。
 私たちは忙しく靴《くつ》やずぼんを脱ぎ、その冷たい少し濁った水へ次から次と飛び込みました。全くその水の濁りやうと来たら素敵に高尚《かうしゃう》なもんでした。その水へ半分顔を浸して泳ぎながら横目で海岸の方を見ますと、泥岩の向ふのはづれは高い草の崖《がけ》になって木もゆれ雲もまっ白に光りました。
 それから私たちは泥岩の出張った処に取りついてだんだん上りました。一人の生徒はスヰミングワルツの口笛を吹きました。私たちのなかでは、ほんたうのオーケストラを、見たものも聴いたことのあるものも少なかったのですから、もちろんそれは町の洋品屋の蓄音器から来たのですけれども、恰度《ちゃうど》そのやうに冷い水は流れたのです。
 私たちは泥岩層の上をあちこちあるきました。所々に壺穴《つぼあな》の痕《あと》があって、その中には小さな円い砂利が入ってゐました。
「この砂利がこの壺穴を穿《ほ》るのです。水がこの上を流れるでせう、石が水の底でザラザラ動くでせう。まはったりもするでせう、だんだん岩が穿れて行くのです。」
 また、赤い酸化鉄の沈んだ岩の裂け目に沿って、層がずうっと溝《みぞ》になって窪《くぼ》んだところもありました。それは沢山の壺穴を連結してちゃうどへうたんをつないだやうに見えました。
「斯《か》う云ふ溝は水の出るたんびにだんだん深くなるばかりです。なぜなら流されて行く砂利はあまりこの高い所を通りません。溝の中ばかりころんで行きます。溝は深くなる一方でせう。水の中をごらんなさい。岩がたくさん縦の棒のやうになってゐます。みんなこれです。」
「あゝ、騎兵だ、騎兵だ。」誰《たれ》かが南を向いて叫びました。
 下流のまっ青な水の上に、朝日橋がくっきり黒く一列浮び、そのらんかんの間を白い上着を着た騎兵たちがぞろっと並んで行きました。馬の足なみがかげろふのやうにちらちらちらちら光りました。それは一中隊ぐらゐで、鉄橋の上を行く汽車よりはもっとゆるく、小学校の遠足の列よりはも少し早く、たぶんは中隊長らしい人を先頭にだんだん橋を渡って行きました。
「どごさ行ぐのだべ。」
「水馬演習でせう。白い上着を着てゐるし、きっと裸馬だらう。」
「こっちさ来るどいゝな。」
「来るよ、きっと。大てい向ふ岸のあの草の中から出て来ます。兵隊だって誰だって気持ちのいゝ所へは来たいんだ。」
 騎兵はだんだん橋を渡り、最後の一人がぽろっと光って、それからみんな見えなくなりました。と思ふと、またこっちの袂《たもと》から一人がだくでかけて行きました。私たちはだまってそれを見送りました。
 けれども、全く見えなくなると、そのこともだんだん忘れるものです。私たちは又冷たい水に飛び込んで、小さな湾になった所を泳ぎまはったり、岩の上を走ったりしました。
 誰かが、岩の中に埋もれた小さな植物の根のまはりに、水酸化鉄の茶いろな環《わ》が、何重もめぐってゐるのを見附けました。それははじめからあちこち沢山あったのです。
「どうしてこの環、出来だのす。」
「この出来かたはむづかしいのです。膠質体《かうしつたい》のことをも少し詳しくやってからでなければわかりません。けれどもとにかくこれは電気の作用です。この環はリーゼガングの環と云ひます。実験室でもこさへられます。あとで土壌の方でも説明します。腐植質|磐層《ばんそう》といふものも似たやうなわけでできるのですから。」私は毎日の実習で疲れてゐましたので、長い説明が面倒くさくて斯《か》う答へました。
 それからしばらくたって、ふと私は川の向ふ岸を見ました。せいの高い二本のでんしんばしらが、互によりかゝるやうにして一本の腕木でつらねられてありました。そのすぐ下の青い草の崖《がけ》の上に、まさしく一人のカアキイ色の将校と大きな茶いろの馬の頭とが出て来ました。
「来た、来た、たうとうやって来た。」みんなは高く叫びました。
「水馬演習だ。向ふ側へ行かう。」斯う云ひながら、そのまっ白なイギリス海岸を上流にのぼり、そこから向ふ側へ泳いで行く人もたくさんありました。
 兵隊は一列になって、崖をなゝめに下り、中にはさきに黒い鉤《かぎ》のついた長い竿《さを》を持った人もありました。
 間もなく、みんなは向ふ側の草の生えた河原に下り、六列ばかりに横にならんで馬から下り、将校の訓示を聞いてゐました。それが中々永かったのでこっち側に居る私たちは実際あきてしま
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