も見てゐない昔の空がやっぱり繰り返し繰り返し曇ったり又晴れたり、海の一とこがだんだん浅くなってたうとう水の上に顔を出し、そこに草や木が茂り、ことにも胡桃《くるみ》の木が葉をひらひらさせ、ひのきやいちゐがまっ黒にしげり、しげったかと思ふと忽《たちま》ち西の方の火山が赤黒い舌を吐き、軽石の火山礫《くゎざんれき》は空もまっくらになるほど降って来て、木は圧《お》し潰《つぶ》され、埋められ、まもなく又水が被《かぶ》さって粘土がその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでせう。考へても変な気がします。そんなことほんたうだらうかとしか思はれません。ところがどうも仕方ないことは、私たちのイギリス海岸では、川の水からよほどはなれた処に、半分石炭に変った大きな木の根株が、その根を泥岩の中に張り、そのみきと枝を軽石の火山礫層に圧し潰されて、ぞろっとならんでゐました。尤《もっと》もそれは間もなく日光にあたってぼろぼろに裂け、度々の出水に次から次と削られては行きましたが、新らしいものも又出て来ました。そしてその根株のまはりから、ある時私たちは四十近くの半分炭化したくるみの実を拾ひました。それは長さが二寸位、幅が一寸ぐらゐ、非常に細長く尖《とが》った形でしたので、はじめは私どもは上の重い地層に押し潰されたのだらうとも思ひましたが、縦に埋まってゐるのもありましたし、やっぱりはじめからそんな形だとしか思はれませんでした。
 それからはんの木の実も見附かりました。小さな草の実もたくさん出て来ました。
 この百万年昔の海の渚《なぎさ》に、今日は北上川が流れてゐます。昔、巨《おほ》きな波をあげたり、じっと寂《しづ》まったり、誰《たれ》も誰も見てゐない所でいろいろに変ったその巨きな鹹水《かんすゐ》の継承者は、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた昔の渚をうちながら夜昼南へ流れるのです。
 こゝを海岸と名をつけたってどうしていけないといはれませうか。
 それにも一つこゝを海岸と考へていゝわけは、ごくわづかですけれども、川の水が丁度大きな湖の岸のやうに、寄せたり退《ひ》いたりしたのです。それは向ふ側から入って来る猿《さる》ヶ石《いし》川とこちらの水がぶっつかるためにできるのか、それとも少し上流がかなりけはしい瀬になってそれがこの泥岩層の岸にぶっつかって戻るためにできるのか、それとも全くほかの原因によるのでせうか、とにかく日によって水が潮のやうに差し退きするときがあるのです。
 さうです。丁度一学期の試験が済んでその採点も終りあとは三十一日に成績を発表して通信簿を渡すだけ、私の方から云へばまあさうです、農場の仕事だってその日の午前で麦の運搬も終り、まあ一段落といふそのひるすぎでした。私たちは今年三度目、イギリス海岸へ行きました。瀬川の鉄橋を渡り牛蒡《ごぼう》や甘藍《キャベジ》が青白い葉の裏をひるがへす畑の間の細い道を通りました。
 みちにはすゞめのかたびらが穂を出していっぱいにかぶさってゐました。私たちはそこから製板所の構内に入りました。製板所の構内だといふことはもくもくした新らしい鋸屑《おがくづ》が敷かれ、鋸《のこぎり》の音が気まぐれにそこを飛んでゐたのでわかりました。鋸屑には日が照って恰度《ちゃうど》砂のやうでした。砂の向ふの青い水と救助区域の赤い旗と、向ふのブリキ色の雲とを見たとき、いきなり私どもはスヰーデンの峡湾にでも来たやうな気がしてどきっとしました。たしかにみんなさう云ふ気もちらしかったのです。製板の小屋の中は藍《あゐ》いろの影になり、白く光る円鋸《まるのこ》が四五|梃《ちゃう》壁にならべられ、その一梃は軸にとりつけられて幽霊のやうにまはってゐました。
 私たちはその横を通って川の岸まで行ったのです。草の生えた石垣《いしがき》の下、さっきの救助区域の赤い旗の下には筏《いかだ》もちやうど来てゐました。花城《くゎじゃう》や花巻の生徒がたくさん泳いで居《を》りました。けれども元来私どもはイギリス海岸に行かうと思ったのでしたからだまってそこを通りすぎました。そしてそこはもうイギリス海岸の南のはじなのでした。私たちでなくたって、折角川の岸までやって来ながらその気持ちのいゝ所に行かない人はありません。町の雑貨商店や金物店の息子たち、夏やすみで帰ったあちこちの中等学校の生徒、それからひるやすみの製板の人たちなどが、或《あるい》は裸になって二人三人づつそのまっ白な岩に座ったり、また網シャツやゆるい青の半ずぼんをはいたり、青白い大きな麦稈《むぎわら》帽をかぶったりして歩いてゐるのを見て行くのは、ほんたうにいゝ気持でした。
 そしてその人たちが、みな私どもの方を見てすこしわらってゐるのです。殊に一番いゝことは、最上等の外国犬が、向ふから黒い影法師と一緒に、一目散に走って来たこと
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