ニ思われました。
 けれどもこの時は早くも高原の夜は明けるらしかったのです。
 それは空気の中に何かしらそらぞらしい硝子《ガラス》の分子のようなものが浮《うか》んできたのでもわかりましたが第一《だいいち》東の九つの小さな青い星で囲《かこ》まれたそらの泉水《せんすい》のようなものが大へん光が弱くなりそこの空は早くも鋼青《こうせい》から天河石《てんがせき》[※9]の板《いた》に変《かわ》っていたことから実《じつ》にあきらかだったのです。
 その冷たい桔梗色《ききょういろ》の底光《そこびか》りする空間を一人の天[※10]が翔《か》けているのを私は見ました。
(とうとうまぎれ込《こ》んだ、人の世界《せかい》のツェラ高原の空間から天の空間へふっとまぎれこんだのだ。)私は胸《むね》を躍《おど》らせながら斯《こ》う思いました。
 天人はまっすぐに翔けているのでした。
(一瞬《いっしゅん》百|由旬《ゆじゅん》[※11]を飛んでいるぞ。けれども見ろ、少しも動《うご》いていない。少しも動かずに移《うつ》らずに変らずにたしかに一瞬百由旬ずつ翔けている。実にうまい。)私は斯うつぶやくように考えました。
 天人の衣《ころも》はけむりのようにうすくその瓔珞《ようらく》[※12]は昧爽《まいそう》[※13]の天盤《てんばん》からかすかな光を受《う》けました。
(ははあ、ここは空気の稀薄《きはく》が殆《ほと》んど真空《しんくう》に均《ひと》しいのだ。だからあの繊細《せんさい》な衣のひだをちらっと乱《みだ》す風もない。)私はまた思いました。
 天人は紺《こん》いろの瞳《ひとみ》を大きく張《は》ってまたたき一つしませんでした。その唇《くちびる》は微《かす》かに哂《わら》いまっすぐにまっすぐに翔けていました。けれども少しも動かず移らずまた変りませんでした。
(ここではあらゆる望《のぞ》みがみんな浄《きよ》められている。願《ねが》いの数はみな寂《しず》められている。重力《じゅうりょく》は互《たがい》に打《う》ち消《け》され冷たいまるめろ[※14]の匂《にお》いが浮動《ふどう》するばかりだ。だからあの天衣《てんい》の紐《ひも》も波《なみ》立たずまた鉛直《えんちょく》に垂《た》れないのだ。)
 けれどもそのとき空は天河石《てんがせき》からあやしい葡萄瑪瑙《ぶどうめのう》の板に変りその天人の翔ける姿《すがた》をもう私は見ませんでした。
(やっぱりツェラの高原だ。ほんの一時のまぎれ込みなどは結局《けっきょく》あてにならないのだ。)斯う私は自分で自分に誨《おし》えるようにしました。けれどもヌうもおかしいことはあの天盤のつめたいまるめろに似《に》たかおりがまだその辺《へん》に漂《ただよ》っているのでした。そして私はまたちらっとさっきのあやしい天の世界の空間を夢《ゆめ》のように感《かん》じたのです。
(こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間は私の感覚《かんかく》のすぐ隣《とな》りに居《い》るらしい。みちをあるいて黄金いろの雲母《うんも》のかけらがだんだんたくさん出て来ればだんだん花崗岩《かこうがん》に近づいたなと思うのだ。ほんのまぐれあたりでもあんまり度々《たびたび》になるととうとうそれがほんとになる。きっと私はもう一度この高原で天の世界を感ずることができる。)私はひとりで斯う思いながらそのまま立っておりました。
 そして空から瞳を高原に転《てん》じました。全く砂はもうまっ白に見えていました。湖は緑青《ろくしょう》よりももっと古びその青さは私の心臓《しんぞう》まで冷たくしました。
 ふと私は私の前に三人の天の子供《こども》らを見ました。それはみな霜《しも》を織《お》ったような羅《うすもの》[※15]をつけすきとおる沓《くつ》をはき私の前の水際《みずぎわ》に立ってしきりに東の空をのぞみ太陽《たいよう》の昇《のぼ》るのを待《ま》っているようでした。その東の空はもう白く燃《も》えていました。私は天の子供らのひだのつけようからそのガンダーラ系統《けいとう》なのを知りました。またそのたしかに于《コウ》※[#もんがまえに真の正字。読みは「タン」]大寺の廃趾《はいし》から発掘《はっくつ》された壁画《へきが》の中の三人なことを知りました。私はしずかにそっちへ進《すす》み愕《おどろ》かさないようにごく声|低《ひく》く挨拶《あいさつ》しました。
「お早う、于※[#もんがまえに真の正字。読みは「タン」]大寺の壁画の中の子供さんたち。」
 三人|一緒《いっしょ》にこっちを向きました。その瓔珞のかがやきと黒い厳《いか》めしい瞳。
 私は進みながらまた云《い》いました。
「お早う。于※[#もんがまえに真の正字。読みは「タン」]大寺の壁画の中の子供さんたち。」
「お前は誰《だれ》だい。」
 右はじの子供がまっすぐに瞬《またたき》もな
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