イーハトーボ農学校の春
宮沢賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)太陽《たいよう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|枚《まい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#ト音記号、48−12]
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 太陽《たいよう》マジックのうたはもう青ぞらいっぱい、ひっきりなしにごうごうごうごう鳴っています。
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[#太陽マジックのうたの楽譜(fig45472_01.png)入る]
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 わたしたちは黄いろの実習服《じっしゅうふく》を着《き》て、くずれかかった煉瓦《れんが》の肥溜《こえだめ》のとこへあつまりました。
 冬中いつも唇《くちびる》が青ざめて、がたがたふるえていた阿部時夫《あべときお》などが、今日はまるでいきいきした顔いろになってにかにかにかにか笑《わら》っています。ほんとうに阿部時夫なら、冬の間からだが悪《わる》かったのではなくて、シャツを一|枚《まい》しかもっていなかったのです。それにせいが高いので、教室でもいちばん火に遠いこわれた戸のすきまから風のひゅうひゅう入って来る北東の隅《すみ》だったのです。
 けれども今日は、こんなにそらがまっ青《さお》で、見ているとまるでわくわくするよう、かれくさも桑《くわ》ばやしの黄いろの脚《あし》もまばゆいくらいです。おまけに堆肥小屋《たいひごや》の裏《うら》の二きれの雲は立派《りっぱ》に光っていますし、それにちかくの空ではひばりがまるで砂糖水《さとうみず》のようにふるえて、すきとおった空気いっぱいやっているのです。もう誰《だれ》だって胸中《むねじゅう》からもくもく湧《わ》いてくるうれしさに笑い出さないでいられるでしょうか。そうでなければ無理《むり》に口を横《よこ》に大きくしたり、わざと額《ひたい》をしかめたりしてそれをごまかしているのです。
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(コロナは六十三万二百
 ※[#ト音記号、48−12]‥‥‥
 ※[#ト音記号、48−13]‥‥‥
 ああきれいだ、まるでまっ赤《か》な花火のようだよ。)
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 それはリシウムの紅焔《こうえん》でしょう。ほんとうに光炎菩薩《こうえんぼさつ》太陽《たいよう》マジックの歌はそらにも地面《ちめん》にもちからいっぱい、日光の小さな小さな菫《すみれ》や橙《だいだい》や赤の波《なみ》といっしょに一生《いっしょう》けん命《めい》に鳴っています。カイロ男爵《だんしゃく》だって早く上等《じょうとう》の絹《きぬ》のフロックを着《き》て明るいとこへ飛《と》びだすがいいでしょう。
 楊《やなぎ》の木の中でも樺《かば》の木でも、またかれくさの地下茎《ちかけい》でも、月光いろの甘《あま》い樹液《じゅえき》がちらちらゆれだし、早い萱草《かんぞう》やつめくさの芽《め》にはもう黄金《きん》いろのちいさな澱粉《でんぷん》の粒《つぶ》がつうつう浮《う》いたり沈《しず》んだりしています。
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(※[#ト音記号、49−8]‥‥‥
 コロナは三十七万十九
 ※[#ト音記号、49−10]‥‥‥
 ※[#ト音記号、49−11]‥‥‥                    )
[#ここで字下げ終わり]
 くずれかかった煉瓦《れんが》の肥溜《こえだめ》の中にはビールのように泡《あわ》がもりあがっています。さあ順番《じゅんばん》に桶《おけ》に汲《く》み込《こ》もう。そこらいっぱいこんなにひどく明るくて、ラジウムよりももっとはげしく、そしてやさしい光の波《なみ》が一生けん命一生けん命ふるえているのに、いったいどんなものがきたなくてどんなものがわるいのでしょうか。もうどんどん泡《あわ》があふれ出してもいいのです。青ぞらいっぱい鳴っているあのりんとした太陽《たいよう》マジックの歌をお聴《き》きなさい。
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(コロナは六十七万四千
 ※[#ト音記号、50−6]‥‥‥
 ※[#ト音記号、50−7]‥‥‥                    )
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 さあ、ではみんなでこいつを下台《しただい》の麦ばたけまで持《も》って行こう、こっちの崖《がけ》はあんまり急《きゅう》ですからやっぱり女学校の裏《うら》をまわって楊《やなぎ》の木のあるとこの坂《さか》をおりて行きましょう。大丈夫《だいじょうぶ》二十分かかりません。なるべくせいの似《に》たような人と、二人《ふたり》で一つずつかついで下さい。そうです、町の裏を通って行くのです。阿部君《あべくん》はいっしょに行くひとがない、それはぼくといっしょに行こう。ああ鳴っている、鳴っている、そこらいちめん鳴っている太陽マジックの歌をごらんなさい。
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(※[#ト音記号、51−1]‥‥‥
 ※[#ト音記号、51−2]‥‥‥
 コロナは八十三万五百
 ※[#ト音記号、51−4]‥‥‥
 ※[#ト音記号、51−5]‥‥‥                    )
[#ここで字下げ終わり]
 まぶしい山の雪の反射《はんしゃ》です。わたくしがはたらきながら、また重《おも》いものをはこびながら、手で水をすくうことも考えることのできないときは、そこから白びかりが氷《こおり》のようにわたくしの咽喉《のど》に寄《よ》せてきて、こくっとわたくしの咽喉《のど》を鳴らし、すっかりなおしてしまうのです。それにいまならぼくたちの膝《ひざ》はまるで上等《じょうとう》のばねのようです。去年《きょねん》の秋のようにあんなつめたい風のなかなら仕事《しごと》もずいぶんひどかったのですけれども、いまならあんまり楽でただ少し肩《かた》の重苦《おもくる》しいのをこらえるだけです。それだって却《かえ》って胸《むね》があつくなっていい気持《きもち》なくらいです。
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(コロナは六十三万十五
 ※[#ト音記号、52−2]‥‥‥
 ※[#ト音記号、52−3]‥‥‥                    )
[#ここで字下げ終わり]
 おおこまどり、鳴いて行く鳴いて行く、音譜《おんぷ》のように飛《と》んで行きます。赤い上着《うわぎ》でどこまで今日はかけて行くの。いいねえ、ほんとうに、
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かえれ、こまどり、アカシヤづくり。
赤の上着《うわぎ》に野やまを越《こ》えて
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(※[#ト音記号、52−8]‥‥‥
 ※[#ト音記号、52−9]‥‥‥
 コロナは三十七万二千
 ※[#ト音記号、52−11]‥‥‥                    )
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 そこの角から赤髪《あかげ》の子供《こども》がひとり、こっちをのぞいてわらっています。おい、大将《たいしょう》、証書《しょうしょ》はちゃんとしまったかい。筆記帳《ひっきちょう》には組と名前を楷書《かいしょ》で書いてしまったの。
 さあ、春だ、うたったり走ったり、とびあがったりするがいい。風野又三郎《かぜのまたさぶろう》だって、もうガラスのマントをひらひらさせ大よろこびで髪《かみ》をぱちゃぱちゃやりながら野はらを飛《と》んであるきながら春が来た、春が来たをうたっているよ。ほんとうにもう、走ったりうたったり、飛びあがったりするがいい。ぼくたちはいまいそがしいんだよ。
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(コロナは八万三千十九
 ※[#ト音記号、53−8]‥‥‥
 ※[#ト音記号、53−9]‥‥‥                    )
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 砂土《すなつち》がやわらかい匂《におい》の息《いき》をはいています。いままでやすんでいた虫どもが、ぼんやりといま眼《め》をさまし、しずかに息をするらしいのです。麦はつやつや光っています。雪の下からうまくとけて出て青い麦です。早く走って行こう、かけさえしたらすぐに麦は吸《す》い込《こ》むのだ。
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(コロナは八万三千十九)
[#ここで字下げ終わり]
 わたくしたちが柄杓《ひしゃく》で肥《こえ》を麦にかければ、水はどうしてそんなにまだ力も入れないうちに水銀《すいぎん》のように青く光り、たまになって麦の上に飛びだすのでしょう、また砂土がどうしてあんなにのどの乾《かわ》いた子どもの水を呑《の》むように肥を吸い込むのでしょう。もうほんとうにそうでなければならないから、それがただひとつのみちだからひとりでどんどんそうなるのです。
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(コロナは十万八千二百
 ※[#ト音記号、54−7]‥‥‥
 ※[#ト音記号、54−8]‥‥‥                    )
[#ここで字下げ終わり]
 こんどは帰りはわたくしたちは近みちをしてあの急《きゅう》な坂《さか》をのぼりましょう。あすこの坂なら杉《すぎ》の木が昆布《こんぶ》かびろうどのようです。阿部君《あべくん》、だまってそらを見ながらあるいていて一体何を見ているの。そうそう、青ぞらのあんな高いとこ、巻雲《けんうん》さえ浮《うか》びそうに見えるとこを、三羽の鷹《たか》かなにかの鳥が、それとも鶴《つる》かスワンでしょうか、三またの槍《やり》の穂《ほ》のようにはねをのばして白く光ってとんで行きます。
[#ここから1字下げ]
(コロナは三十七万二百
 ※[#ト音記号、55−1]‥‥‥
 ※[#ト音記号、55−2]‥‥‥                    )
[#ここで字下げ終わり]
 おや、このせきの去年のちいさな丸太の橋《はし》は、雪代水《ゆきしろみず》で流《なが》れたな、からだだけならすぐ跳《と》べるんだが肥桶《こえおけ》をどうしような。阿部君、まず跳び越《こ》えてください。うまい、少しぐちゃっと苔《こけ》にはいったけれども、まあいいねえ、それではぼくはいまこっちで桶をつるすから、そっちでとってくれ給《たま》え。そら、重《おも》い、ぼくは起重機《きじゅうき》の一種《いっしゅ》だよ。重い、ほう、天びん棒《ぼう》がひとりでに、磁石《じしゃく》のように君《きみ》の手へ吸《す》い着《つ》いて行った。太陽《たいよう》マジックなんだほんとうに。うまい。
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(※[#ト音記号、55−9]‥‥‥
 ※[#ト音記号、55−10]‥‥‥                    )
[#ここで字下げ終わり]
 楊《やなぎ》の木でも樺《かば》の木でも、燐光《りんこう》の樹液《じゅえき》がいっぱい脈《みゃく》をうっています。



底本:「イーハトーボ農学校の春」角川文庫、角川書店
   1996(平成8)年3月25日初版発行
底本の親本:「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房
   1995(平成7)年5月
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2009年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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