がきらっと光って霧《きり》とその琥珀との浮遊《ふゆう》の中を過《す》ぎて行きました。
と思うと俄かにぱっとあたりが黄金に変りました。
霧が融《と》けたのでした。太陽《たいよう》は磨《みが》きたての藍銅鉱《らんどうこう》のそらに液体《えきたい》のようにゆらめいてかかり融《と》けのこりの霧はまぶしく蝋《ろう》のように谷のあちこちに澱《よど》みます。
(ああこんなけわしいひどいところを私は渡《わた》って来たのだな。けれども何というこの立派《りっぱ》さだろう。そしてはてな、あれは。)
諒安は眼《め》を疑《うたが》いました。そのいちめんの山谷の刻《きざ》みにいちめんまっ白にマグノリアの木の花が咲《さ》いているのでした。その日のあたるところは銀《ぎん》と見え陰《かげ》になるところは雪のきれと思われたのです。
(けわしくも刻《きざ》むこころの峯々《みねみね》に いま咲きそむるマグノリアかも。)斯《こ》う云《い》う声がどこからかはっきり聞えて来ました。諒安は心も明るくあたりを見まわしました。
すぐ向《むこ》うに一本の大きなほおの木がありました。その下に二人の子供《こども》が幹《みき》を間にして立っているのでした。
(ああさっきから歌っていたのはあの子供らだ。けれどもあれはどうもただの子供らではないぞ。)諒安《りょうあん》はよくそっちを見ました。
その子供らは羅《うすもの》をつけ瓔珞《ようらく》をかざり日光に光り、すべて断食《だんじき》のあけがたの夢《ゆめ》のようでした。ところがさっきの歌はその子供らでもないようでした。それは一人の子供がさっきよりずうっと細い声でマグノリアの木の梢《こずえ》を見あげながら歌い出したからです。
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「サンタ、マグノリア、
枝《えだ》にいっぱいひかるはなんぞ。」
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向《むこ》う側《がわ》の子が答えました。
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「天に飛《と》びたつ銀《ぎん》の鳩《はと》。」
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こちらの子がまたうたいました。
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「セント、マグノリア、
枝にいっぱいひかるはなんぞ。」
「天からおりた天の鳩。」
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諒安はしずかに進《すす》んで行きました。
「マグノリアの木は寂静印《じゃくじょういん》です。ここはどこですか。」
「私たちにはわかりません。」一人の子がつつましく賢《かし》こそうな眼《め》をあげながら答えました。
「そうです、マグノリアの木は寂静印です。」
強いはっきりした声が諒安《りょうあん》のうしろでしました。諒安は急《いそ》いでふり向《む》きました。子供らと同じなりをした丁度《ちょうど》諒安と同じくらいの人がまっすぐに立ってわらっていました。
「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感《かん》じているのですから。」
「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」
その人は笑《わら》いました。諒安と二人ははじめて軽《かる》く礼《れい》をしました。
「ほんとうにここは平《たい》らですね。」諒安はうしろの方のうつくしい黄金の草の高原を見ながら云《い》いました。その人は笑いました。
「ええ、平らです、けれどもここの平らかさはけわしさに対《たい》する平らさです。ほんとうの平らさではありません。」
「そうです。それは私がけわしい山谷を渡《わた》ったから平らなのです。」
「ごらんなさい、そのけわしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲《さ》いています。」
「ええ、ありがとう、ですからマグノリアの木は寂静《じゃくじょう》です。あの花びらは天の山羊《やぎ》の乳《ちち》よりしめやかです。あのかおりは覚者《かくしゃ》たちの尊《とうと》い偈《げ》を人に送《おく》ります。」
「それはみんな善《ぜん》です。」
「誰《だれ》の善ですか。」諒安はも一度《いちど》その美《うつく》しい黄金の高原とけわしい山谷の刻《きざ》みの中のマグノリアとを見ながらたずねました。
「覚者の善です。」その人の影《かげ》は紫《むらさき》いろで透明《とうめい》に草に落《お》ちていました。
「そうです、そしてまた私どもの善です。覚者の善は絶対《ぜったい》です。それはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい峯《みね》のつめたい巌《いわ》にもあらわれ、谷の暗《くら》い密林《みつりん》もこの河《かわ》がずうっと流《なが》れて行って氾濫《はんらん》をするあたりの度々《たびたび》の革命《かくめい》や饑饉《ききん》や疫病《やくびょう》やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です。
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