マグノリアの木
宮澤賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)霧《きり》が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半分|踏《ふ》み

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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 霧《きり》がじめじめ降《ふ》っていた。
 諒安《りょうあん》は、その霧の底《そこ》をひとり、険《けわ》しい山谷の、刻《きざ》みを渉《わた》って行きました。
 沓《くつ》の底を半分|踏《ふ》み抜《ぬ》いてしまいながらそのいちばん高い処《ところ》からいちばん暗《くら》い深《ふか》いところへまたその谷の底から霧に吸《す》いこまれた次《つぎ》の峯《みね》へと一生けんめい伝《つた》って行きました。
 もしもほんの少しのはり合で霧を泳《およ》いで行くことができたら一つの峯から次の巌《いわ》へずいぶん雑作《ぞうさ》もなく行けるのだが私はやっぱりこの意地悪《いじわる》い大きな彫刻《ちょうこく》の表面《ひょうめん》に沿《そ》ってけわしい処ではからだが燃《も》えるようになり少しの平《たい》らなところではほっと息《いき》をつきながら地面《じめん》を這《は》わなければならないと諒安は思いました。
 全《まった》く峯にはまっ黒のガツガツした巌が冷《つめ》たい霧を吹《ふ》いてそらうそぶき折角《せっかく》いっしんに登《のぼ》って行ってもまるでよるべもなくさびしいのでした。
 それから谷の深い処には細《こま》かなうすぐろい灌木《かんぼく》がぎっしり生えて光を通すことさえも慳貪《けんどん》そうに見えました。
 それでも諒安《りょうあん》は次《つぎ》から次とそのひどい刻《きざ》みをひとりわたって行きました。
 何べんも何べんも霧《きり》がふっと明るくなりまたうすくらくなりました。
 けれども光は淡《あわ》く白く痛《いた》く、いつまでたっても夜にならないようでした。
 つやつや光る竜《りゅう》の髯《ひげ》のいちめん生えた少しのなだらに来たとき諒安はからだを投《な》げるようにしてとろとろ睡《ねむ》ってしまいました。
(これがお前の世界《せかい》なのだよ、お前に丁度《ちょうど》あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景色《けしき》なのだよ。)
 誰《だれ》かが、或《ある》いは諒安|自身《じしん》が、耳の近くで何べんも斯《こ》う叫《さけ》んでいました。
(そうです。そうです。そうですとも。いかにも私の景色です。私なのです。だから仕方《しかた》がないのです。)諒安はうとうと斯《こ》う返事《へんじ》しました。
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(これはこれ
  惑《まど》う木立《こだち》の
   中ならず
 しのびをならう
  春の道場)
[#ここで字下げ終わり]
 どこからかこんな声がはっきり聞えて来ました。諒安《りょうあん》は眼《め》をひらきました。霧《きり》がからだにつめたく浸《し》み込《こ》むのでした。
 全《まった》く霧は白く痛《いた》く竜《りゅう》の髯《ひげ》の青い傾斜《けいしゃ》はその中にぼんやりかすんで行きました。諒安はとっととかけ下りました。
 そしてたちまち一本の灌木《かんぼく》に足をつかまれて投《な》げ出すように倒《たお》れました。
 諒安はにが笑《わら》いをしながら起《お》きあがりました。
 いきなり険《けわ》しい灌木の崖《がけ》が目の前に出ました。
 諒安はそのくろもじの枝《えだ》にとりついてのぼりました。くろもじはかすかな匂《におい》を霧に送《おく》り霧は俄《にわ》かに乳《ちち》いろの柔《やわ》らかなやさしいものを諒安によこしました。
 諒安はよじのぼりながら笑いました。
 その時霧は大へん陰気《いんき》になりました。そこで諒安は霧にそのかすかな笑《わら》いを投《な》げました。そこで霧はさっと明るくなりました。
 そして諒安はとうとう一つの平《たい》らな枯草《かれくさ》の頂上《ちょうじょう》に立ちました。
 そこは少し黄金《きん》いろでほっとあたたかなような気がしました。
 諒安は自分のからだから少しの汗《あせ》の匂《にお》いが細い糸のようになって霧の中へ騰《のぼ》って行くのを思いました。その汗という考から一|疋《ぴき》の立派《りっぱ》な黒い馬がひらっと躍《おど》り出して霧の中へ消《き》えて行きました。
 霧が俄《にわ》かにゆれました。そして諒安《りょうあん》はそらいっぱいにきんきん光って漂《ただよ》う琥珀《こはく》の分子のようなものを見ました。それはさっと琥珀から黄金に変《かわ》りまた新鮮《しんせん》な緑《みどり》に遷《うつ》ってまるで雨よりも滋《しげ》く降《ふ》って来るのでした。
 いつか諒安の影《かげ》がうすくかれ草の上に落《お》ちていました。一きれのいいかおり
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