、ありがとう。ファゼーロも帰って来てすっかりもとの通りですね。」
「山猫博士が居ませんや。」
「山猫博士? デストゥパーゴ? デストゥパーゴにわたしはセンダードで会いましたよ。大へんおちぶれて気の毒なくらいだった。」
「いいえ、デストゥパーゴが落ちぶれるもんですか。大将、センダードのまちにたくさん土地を持っていますよ。」
「はてな、財産はみんなあの乾溜会社にかけてしまったと云っていたが。」
「どうして、どうして、あの山猫がそんなことをするもんですか。会社の株が、ただみたいになったから大将遁げてしまったんです。」
「いや、何か重役の人が醸造の方へかかろうとして手続を欠いて責任を負ったとか云っていたが。」
「どうしてどうして。酒をつくることなんかみんな大将の考えなんですよ。」
「だって試験的にわずかつくっただけだそうじゃないですか。」
「あなたはよっぽどうまくだまされておいでですよ。あの工場からアセトンだと云って樽《たる》詰めにして出したのはみんな立派な混成酒でさあ。悪いのには木精もまぜたんです。その密造なら二年もやっていたんです。」
「じゃポラーノの広場で使ったのもそれか。」
「そうですとも。いや何と云っても大将はずるいもんですよ。みんなにも弱味があるから、まあこのまま泣寝入でさあ。ただまああの工場をこんどはみんなでいろいろに使って、できるだけお互いのいるものは拵えようというんです。」
「そうかねえ。」「ファゼーロが何かするのかい。」
「ええ、まあ別に新らしい資本がかかるわけでもなし、革をなめしたりハムを拵えたり、栗を蒸して乾かしたり、そんなことをいろいろやろうというんです。」
「さあもう行こう。」ファゼーロがわたくしをつっつきました。
「それじゃまた。」
「お休みなさい。」
 どうもデストゥパーゴの云ったのが本当か、みんなの云うのが本当か、これはどうもよくわからないと、わたくしはあるきだしながらおもいました。
「まっすぐだよ、まっすぐだよ。わたくしはあれからもう何べんも来てわかっているから。」
 わたくしはファゼーロの近くへ行って風の中で聞えるように云いました。ファゼーロはかすかにうなずいて、また走りだしました。夕暗のなかにその白いシャツばかりぼんやりゆれながら走りました。
 間もなくわたくしははるかな野原のはてに青白い五つばかりのあかりと、その上に青く傘のようになってぼんやりひかっている、この前のはんのきを見ました。だんだん近づいて行くと、その葉が風にもまれて次から次と湧いているよう、枝と枝とがぶっつかり合って、じぶんから青白い光を出しているようなのもわかるようになり、またその下に五人ばかりの黒い影が魚をとったりするときつかう、アセチレン燈をもって立っているのも見ました。今日は広場にはテーブルも椅子も箱もありませんでした。ただ一つのから箱があるきりでした。そのなかから見覚えのある、大きな帽子、円い肩、ミーロがこっちへ出て来ました。
「とうとう来たな。今晩は、いいお晩でございます。」
 ミーロはわたくしに挨拶しました。みんなも待っていたらしく口々に云いました。わたくしどもは、そのまま広場を通りこしてどんどん急ぎました。
 のはらはだんだん草があらくなって、あちこちには黒い藪も風に鳴り、たびたび柏の木か樺の木かが、まっ黒にそらに立って、ざわざわざわざわゆれているのでした。そしていつか私どもは細いみちを一列にならんであるいていたのです。
「もうじきだよ。」ファゼーロが一番前で高く叫びました。
 みちの両側はいつかすっかり林になっていたのです。そして三十分ばかりだまって歩くと、なにかぷうんと木屑のようなものの匂がして、すぐ眼の前に灰いろの細長い屋根が見えました。
「誰か来ているな。」ファゼーロが叫びました。
 その大きな黒い建物の窓に、ちらちらあかりが射しているのです。
「おおい、キューストさんが来たぞ。」ミーロが高く叫びました。
「おおい。」中からも誰かが返事をしました。
 私どもはその建物の中へ入って行きました。そこに巨きな鉄の罐《かん》が、スフィンクスのように、こっちに向いて置いてあって、土間には沢山の大きな素焼《すやき》の壺が列んでいました。
「いや今晩は。」ひとりのはだしの年老った人が土間で私に挨拶しました。
「これが乾燥|罐《かん》だよ。」ファゼーロが云いました。
「ここで何人稼いでいたって。」私はたずねました。
「そうねえ、盛んにもうかったときは三十人から居たろう。」ミーロが答えました。
「どうしてだめになったんだ。」
 みんなが顔を見合せました。さっきの年老った人が云いました。
「薬のねだんが下ったためです。」
「そうですかねえ。そんなに間に合わないのかなあ。ところが、ねえおい。ファゼーロ、おれはこの釜でやっぱり醋酸《さくさん》をつくった方がいいと思う。あのときは会社だなんて、あんまりみんなでやったから損になったんだけれども、おれたちだけでやるんなら、手間にはきっとなるからな。十瓶だって二十瓶だって引き受けると町の薬屋でも云ってくるからな。」
「そうだ。」ファゼーロが云いました。
「ここの下へたいた煙を、となりの酒をつくったむろに通して、あすこでハムをつくるといいな。」
「それはサートもそう云ってるよ。とにかくこの罐へ入れてやれば、木炭はそっくりとれるしさ、ハムもすぐには売れなくたって仲間へだけは頒《わ》けられるからな。」
「さあよし、やろう。キューストはたびたび来て見てくれるだろう。」
「ああ、ぼくは畜産の方にも林産製造の方にも友だちがあるから、みんなさそって来てやるよ。ポラーノの広場のはなしをしてね。」
「そうだ、ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれども、やっとのことでそれをさがすと、それは選挙につかう酒盛りだった。けれども、むかしのほんとうのポラーノの広場はまだどこかにあるような気がしてぼくは仕方ない。」
「だからぼくらは、ぼくらの手でこれからそれを拵えようでないか。」
「そうだ、あんな卑怯な、みっともない、わざとじぶんをごまかすような、そんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えば、もう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いような、そういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」
「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから。」
「何をしようといってもぼくらはもっと勉強しなくてはならないと思う。こうすればぼくらの幸になるということはわかっていても、そんならどうしてそれをはじめたらいいか、ぼくらにはまだわからないのだ。町にはたくさんの学校があって、そこにはたくさんの学生がいる。その人たちはみんな一日一ぱい勉強に時間をつかえるし、いい先生は覚えたいくらい教えてくれる。ぼくらには一日に三時間の勉強の時間もない。それも大ていはつかれてねむいのだ。先生といったら講義録しかない。わからないところができて質問してやってもなかなか返事が来ない。けれどもぼくたちは一生けん命に勉強して行かなければならない。ぼくはどうかしてもっと勉強のできるようなしかたをみんなでやりたいと思う。」
 その子どもは坐りました。
 わたくしは思わずはねあがりました。
「諸君、諸君の勉強はきっとできる。きっとできる。町の学生たちは仕事に勉強はしている。けれども何のために勉強しているかもう忘れている。先生の方でもなるべくたくさん教えようとして、まるで生徒の頭をつからしてぐったりさしている。そしてテニスだのランニングも必要だと云って盛んにやっている。諸君はテニスだの野球の競争だなんてことはやらない。けれども体のことならもうやりすぎるくらいやっている。けれどもどっちがさきに進むだろう。それは何といっても向うの方が進むだろう。そのときぼくらはひどい仕事をしたほかに、どうしてそれに追い付くか。さっき諸君の云う通りだ。向うは何年か専門で勉強すればあとはゆっくりそれでくらして、酒を呑んだりうちをもったり、だんだん勉強しなくなる。こっちはいつまでもいまの勢で一生勉強して行くのだ。
 諸君、酒を呑まないことで酒を呑むものより一割余計の力を得る。たばこをのまないことから二割余計の力を得る。まっすぐに進む方向をきめて、頭のなかのあらゆる力を整理することから、乱雑なものにくらべて二割以上の力を得る。そうだあの人たちが女のことを考えたり、お互の間の喧嘩のことでつかう力をみんなぼくらのほんとうの幸をもってくることにつかう。見たまえ、諸君はまもなくあれらの人たちへくらべて倍の力を得るだろう。けれどもこういうやりかたをいままでのほかの人たちに強いることはいけない。あの人たちは、ああいう風に酒を呑まなければ、淋しくて寒くて生きていられないようなときに生れたのだ。
 ぼくらはだまってやって行こう。風からも光る雲からも諸君にはあたらしい力が来る。そして諸君はまもなくここへ、ここのこの野原へむかしのお伽噺《とぎばなし》よりもっと立派なポラーノの広場をつくるだろう。」
 みんなはよろこんで叫びだしました。ファゼーロが云いました。
「ぼくらはねえ、冬の間に勉強しよう。みんなで同じ本を読んで置いて、五日に一晩あすこの工場に集って、かわるがわるたずねたり教えたりすることをしよう。ねえ、キュースト。あなたは何か教えてくれるだろう。」
「ああ、ぼくはねえ、前に植物の先生をしたから、植物の生理のことや、ほかにも何か三つぐらいは教えてあげるよ。それはねえ。いままでのようにごたごた要らないことまでおぼえて物知りになることはいらないんだ。ほんとうに骨組みと要るとこだけやればいいんだから。あとは仕事がひとりでそれを教えるし、だんだんじぶんで読んで行けるから。」
「ぼくらは冬にあの工場へ集ったりしていろいろこさえようじゃないか。ファゼーロが皮を染めたりするだろう、ぼくはへただけれどもチョッキはつくれるよ。ミーロはいつでも上手に帽子をこしらえているんだから、仕事にやったらもっと上手にできるだろう。」
「そうだそうだ。ぼくらは冬につくったものをお互で取り換えようねえ。ぼくは木をくってこしらえるものならすきだよ。」
「やろうやろう。夏にははたけや野原ではたらいて食べるものをとるし、冬にはお互で要るものをこしらえて取りかえれば……。」
 ミーロがにわかに風があんまり烈しく吹いてきたので眼を細くしながら坐りました。はんの木もまるで弓のようになりました。
 その風のなかでわたくしはまた立ちました。
「そうだ、諸君、あたらしい時代はもう来たのだ。この野原のなかにまもなく千人の天才がいっしょに、お互に尊敬し合いながら、めいめいの仕事をやって行くだろう。ぼくももうきみらの仲間にはいろうかなあ。」
「ああはいっておくれ。おい、みんな、キューストさんがぼくらのなかまへはいると。」
「ロザーロ姉さんをもらったらいいや。」だれかが叫びました。
 わたくしは思わずぎくっとしてしまいました。
「いや、わたくしはまだまだ勉強しなければならない。この野原へ来てしまっては、わたくしにはそれはいいことでない。いや、わたくしははいらないよ。はいれないよ。なぜなら、もうわたくしは何もかもできるという風にはなっていないんだ。わたくしはびんぼうな教師の子どもにうまれて、ずうっと本ばかり読んで育ってきたのだ。諸君のように雨にうたれ風に吹かれ育ってきていない。ぼくは考えはまったくきみらの考えだけれども、からだはそうはいかないんだ。けれどもぼくはぼくできっと仕事をするよ。ずうっと前からぼくは野原の富をいま三倍もできるようにすることを考えていたんだ。ぼくはそれをやって行く。
(原稿約一枚分空白)
 そしてわたくしどもは立ちあがりました。
 風がどうっと吹いて来ました。みんなは思わず風にうしろ向きになってかがみ、わたくしはさっきからあんまり叫んだので風でいっぱいにむせました。はんのきも梢がまるで地面まで届くようでした。
「さあよし、やるぞ。ぼくはも
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