に。」と云いました。
 わたくしはまたうやうやしく礼をして室を出ました。それから席へ戻って机の上をかたづけて、そっと役所を出かけました。巨きな桜の街路樹の下をあるいて行って、警察の赤い煉瓦造りの前に立ちましたら、さすがにわたくしもすこしどきどきしました。けれども何も悪いことはないのだからと、じぶんでじぶんをはげまして勢よく玄関の正面の受付にたずねました。
「お呼びがありましたので参りましたが、レオーノ・キューストでございます。」
 すると受付の巡査はだまって帳面を五六枚繰っていましたが、
「ああ失踪《しっそう》者の件だね、人事係のとこへ、その左の方の入口からはいって待っていたまえ。」と云いました。
 失踪者の件というのは何のことだろう、決闘の件とでも云うならわかっているし、その決闘なら刃の円くなった食卓ナイフでやったことなのだ、デストゥパーゴが血を出したかどうかもわからない、まあ何かの間違いだろうと思いながら、わたくしは室へ入って行きました。そこはがらんとした、窓の七つばかりある広い室でしたが、その片隅みにあの山猫博士の馬車別当が、からだを無暗《むやみ》にこわばらして、じつに青ざめた変
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