そしてその日は一日、来ていた荷物をほどいたり机の上にたまっていた書類を整理したりしているうちに、いつか夕方になってしまいました。わたくしもみんなのあとから役所を出て、いままでの通り公衆食堂で食事をして競馬場へ帰って来ました。するとやっぱりよほど疲れていたと見えて、ちょっと椅子へかけたと思ったら、いつかもうとろとろ睡ってしまっていました。その甘ったるい夕方の夢のなかで、わたくしはまだあの茶いろななめらかな昆布の干された、イーハトーヴォの岩礁の間を小舟に乗って漕《こ》ぎまわっていました。俄かに舟がぐらぐらゆれ、何でも恐ろしくむかし風の竜が出てきて、わたくしははねとばされて岩に投げつけられたと思って眼をさましました。誰かわたくしをゆすぶっていたのです。
 わたくしは何べんも瞳を定めてその顔を見ました。それはファゼーロでした。
「あっ、どうしたんだ、きみは、ずうっと前から居たのかい。」わたくしはびっくりして云いました。
「ぼくはね、八月の十日に帰ってきたよ。おまえはいままで居なかったじゃないか。」
「居なかったさ。海岸へ出張していたんだ。」
「今夜ね、ぼくらの工場へ来ておくれ。」
「きみらの工場? 何がどうしたんだ。全体きみはどこへ行ってたんだ。」
「ぼくはねえ、センダードのまちの革を染める工場へはいっていたよ。」
「センダード。どうしてあんなとこまで行ったんだ。そして今夜またぼくにセンダードへ行けというのかい。」
「そうじゃないよ。」
「ではどうなんだ。第一どうしてあんなとこまで行ったんだ。」
「ぼく、どうしても、うちへはいれなかったんだ。そしてうちを通り越してもっと歩いて行った。すると夜が明けた。ぼくが困って坐っていると革を買う人が通ってその車にぼくをのせてたべものをくれた。それからぼくはだんだん仕事も手伝ってとうとうセンダードへ行ったんだ。」
「そうか。ほんとうにそれはよかったなあ。ぼくはまたきみがあの醋酸《さくさん》工場の釜の中へでも入れられて蒸し焼きにされたかと思ったんだ。」
「ぼくはねえ、あっちで技師の助手をしたんだ。するとその人が何でも教えてくれた。薬もみんな教えてくれた。ぼくはもう革のことなら、なめすことでも色を着けることでもなんでもできるよ。」
「そしてどうして帰ってきた。」
「警察から探されたんだよ。けれどもそんなに叱られなかった。」
「きみの主人は何と
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