その人はしづかにみんなを見まはしました。
「みんなひどく傷を受けてゐる。それはおまへたちが自分で自分を傷つけたのだぞ。けれどもそれも何でもない、」その人は大きなまっ白な手で楢夫《ならを》の頭をなでました。楢夫も一郎もその手のかすかにほほの花のにほひのするのを聞きました。そしてみんなのからだの傷はすっかり癒《なほ》ってゐたのです。
 一人の鬼がいきなり泣いてその人の前にひざまづきました。それから頭をけはしい瑪瑙の地面に垂れその光る足を一寸《ちょっと》手でいたゞきました。
 その人は又微かに笑ひました。すると大きな黄金《きん》いろの光が円い輪になってその人の頭のまはりにかゝりました。その人は云ひました。
「こゝは地面が剣でできてゐる。お前たちはそれで足やからだをやぶる。さうお前たちは思ってゐる、けれどもこの地面はまるっきり平らなのだ。さあご覧。」
 その人は少しかゞんでそのまっ白な手で地面に一つ輪をかきました。みんなは眼を擦《こす》ったのです。又耳を疑がったのです。今までの赤い瑪瑙の棘ででき暗い火の舌を吐いてゐたかなしい地面が今は平らな平らな波一つ立たないまっ青な湖水の面に変りその湖水はどこまでつづくのかはては孔雀石《くじゃくいし》の色に何条もの美しい縞《しま》になり、その上には蜃気楼《しんきろう》のやうにそしてもっとはっきりと沢山の立派な木や建物がじっと浮んでゐたのです。それらの建物はずうっと遠くにあったのですけれども見上げるばかりに高く青や白びかりの屋根を持ったり虹《にじ》のやうないろの幡《はた》が垂れたり、一つの建物から一つの建物へ空中に真珠のやうに光る欄干《らんかん》のついた橋廊がかかったり高い塔はたくさんの鈴や飾り網を掛けそのさきの棒はまっすぐに高くそらに立ちました。それらの建物はしんとして音なくそびえその影は実にはっきりと水面に落ちたのです。
 またたくさんの樹《き》が立ってゐました。それは全く宝石細工としか思はれませんでした。はんの木のやうなかたちでまっ青な樹もありました。楊《やなぎ》に似た木で白金のやうな小さな実になってゐるのもありました。みんなその葉がチラチラ光ってゆすれ互いにぶっつかり合って微妙な音をたてるのでした。
 それから空の方からはいろいろな楽器の音がさまざまのいろの光のこなと一所《いっしょ》に微《かす》かに降ってくるのでした。もっともっと愕《おどろ》いたことはあんまり立派な人たちのそこにもこゝにも一杯なことでした。ある人人は鳥のやうに空中を翔《か》けてゐましたがその銀いろの飾りのひもはまっすぐにうしろに引いて波一つたたないのでした。すべて夏の明方のやうないゝ匂《にほひ》で一杯でした。ところが一郎は俄《には》かに自分たちも又そのまっ青な平らな平らな湖水の上に立ってゐることに気がつきました。けれどもそれは湖水だったのでせうか。いゝえ、水ぢゃなかったのです。硬かったのです。冷たかったのです、なめらかだったのです。それは実に青い宝石の板でした。板ぢゃない、やっぱり地面でした。あんまりそれがなめらかで光ってゐたので湖水のやうに見えたのです。
 一郎はさっきの人を見ました。その人はさっきとは又まるで見ちがへるやうでした。立派な瓔珞《やうらく》をかけ黄金《きん》の円光を冠《かぶ》りかすかに笑ってみんなのうしろに立ってゐました。そこに見えるどの人よりも立派でした。金と紅宝石《ルビー》を組んだやうな美しい花皿を捧《ささ》げて天人たちが一郎たちの頭の上をすぎ大きな碧《あを》や黄金のはなびらを落して行きました。
 そのはなびらはしづかにしづかにそらを沈んでまゐりました。
 さっきのうすくらい野原で一緒だった人たちはいまみな立派に変ってゐました。一郎は楢夫を見ました。楢夫がやはり黄金《きん》いろのきものを着、瓔珞《やうらく》も着けてゐたのです。それから自分を見ました。一郎の足の傷や何かはすっかりなほっていまはまっ白に光りその手はまばゆくいゝ匂《にほひ》だったのです。
 みんなはしばらくたゞよろこびの声をあげるばかりでしたがそのうちに一人の子が云ひました。
「此処《ここ》はまるでいゝんだなあ、向ふにあるのは博物館かしら。」
 その巨《おほ》きな光る人が微笑《わら》って答へました。
「うむ。博物館もあるぞ。あらゆる世界のできごとがみんな集まってゐる。」
 そこで子供らは俄《には》かにいろいろなことを尋ね出しました。一人が云ひました。
「こゝには図書館もあるの。僕アンデルゼンのおはなしやなんかもっと読みたいなあ。」
一人が云ひました。
「こゝの運動場なら何でも出来るなあ、ボールだって投げたってきっとどこまでも行くんだ。」
 非常に小さな子は云ひました。
「僕はチョコレートがほしいなあ。」
 その巨きな人はしづかに答へました。
「本はこゝにはいくらでもある。一冊の本の中に小さな本がたくさんはひってゐるやうなものもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入ってゐるやうな本もある、お前たちはよく読むがいゝ。運動場もある、そこでかけることを習ふものは火の中でも行くことができる。チョコレートもある。こゝのチョコレートは大へんにいゝのだ。あげよう。」その大きな人は一寸《ちょっと》空の方を見ました。一人の天人が黄いろな三角を組みたてた模様のついた立派な鉢を捧げてまっすぐに下りて参りました。そして青い地面に降りて虔《うやうや》しくその大きな人の前にひざまづき鉢を捧げました。
「さあたべてごらん。」その大きな人は一つを楢夫にやりながらみんなに云ひました。みんなはいつか一つづつその立派な菓子を持ってゐたのです。それは一寸|嘗《な》めたときからだ中すうっと涼しくなりました。舌のさきで青い蛍のやうな色や橙《だいだい》いろの火やらきれいな花の図案になってチラチラ見えるのでした。たべてしまったときからだがピンとなりました。しばらくたってからだ中から何とも云へないいゝ匂いがぼうっと立つのでした。
「僕たちのお母さんはどっちに居るだらう。」楢夫が俄《には》かに思ひだしたやうに一郎にたづねました。
 するとその大きな人がこっちを振り向いてやさしく楢夫の頭をなでながら云ひました。
「今にお前の前のお母さんを見せてあげよう。お前はもうこゝで学校に入らなければならない。それからお前はしばらく兄さんと別れなければならない。兄さんはもう一度お母さんの所へ帰るんだから。」
 その人は一郎に云ひました。
「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ。お前はすなほないゝ子供だ。よくあの棘《とげ》の野原で弟を棄《す》てなかった。あの時やぶれたお前の足はいまはもうはだしで悪い剣の林を行くことができるぞ。今の心持を決して離れるな。お前の国にはこゝから沢山の人たちが行ってゐる。よく探《さが》してほんたうの道を習へ。」その人は一郎の頭を撫《な》でました。一郎はたゞ手を合せ眼を伏せて立ってゐたのです。それから一郎は空の方で力一杯に歌ってゐるいゝ声の歌を聞きました。その歌の声はだんだん変りすべての景色はぼうっと霧の中のやうに遠くなりました。たゞその霧の向ふに一本の木が白くかゞやいて立ち楢夫がまるで光って立派になって立ちながら何か云ひたさうにかすかにわらってこっちへ一寸手を延ばしたのでした。

      五、峠

「楢夫」と一郎は叫んだと思ひましたら俄《には》かに新しいまっ白なものを見ました。それは雪でした。それから青空がまばゆく一郎の上にかかってゐるのを見ました。
「息|吐《つい》だぞ。眼|開《あ》ぃだぞ。」一郎のとなりの家の赤髯《あかひげ》の人がすぐ一郎の頭のとこに曲《かが》んでゐてしきりに一郎を起さうとしてゐたのです。そして一郎ははっきり眼を開きました。楢夫を堅く抱いて雪に埋まってゐたのです。まばゆい青ぞらに村の人たちの顔や赤い毛布や黒の外套《ぐわいたう》がくっきりと浮んで一郎を見下してゐるのでした。
「弟ぁなぢょだ。弟ぁ。」犬の毛皮を着た猟師が高く叫びました。となりの人は楢夫の腕をつかんで見ました。一郎も見ました。
「弟ぁわがなぃよだ。早ぐ火|焚《た》げ」となりの人が叫びました。
「火焚ぃでわがなぃ。雪さ寝せろ。寝せろ。」
 猟師が叫びました。一郎は扶《たす》けられて起されながらも一度楢夫の顔を見ました。その顔は苹果《りんご》のやうに赤くその唇はさっき光の国で一郎と別れたときのまゝ、かすかに笑ってゐたのです。けれどもその眼はとぢその息は絶えそしてその手や胸は氷のやうに冷えてしまってゐたのです。



底本:「宮沢賢治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年3月25日第1刷発行
   1992(平成4)年3月10日第6刷発行
入力:あきら
校正:伊藤時也
2000年2月4日公開
2005年10月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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