ものがあらはれました。
それからしばらくたってフィーとするどい笛のやうな声が聞えて来ました。
すると楢夫がしばらく口をゆがめて変な顔をしてゐましたがたうとうどうしたわけかしくしく泣きはじめました。一郎も変な顔をして楢夫を見ました。
お父さんがそこで
「何した、家さ行ぐだぐなったのが、何した。」とたづねましたが楢夫は両手を顔にあてて返事もしないで却《かへ》ってひどく泣くばかりでした。
「何した、楢夫、腹痛ぃが。」一郎もたづねましたがやっぱり泣くばかりでした。
お父さんは立って楢夫の額に手をあてて見てそれからしっかり頭を押へました。
するとだんだん泣きやんでつひにはたゞしくしく泣きじゃくるだけになりました。
「何《な》して泣ぃだ。家さ行ぐだぃぐなったべぁな。」お父さんが云ひました。
「うんにゃ。」楢夫は泣きじゃくりながら頭をふりました。
「どごが痛くてが。」
「うんにゃ。」
「そだらなして泣ぃだりゃ、男などぁ泣がなぃだな。」
「怖《お》っかなぃ。」まだ泣きながらやっと答へるのでした。
「なして怖っかなぃ。お父さんも居るし兄《あい》なも居るし昼まで明りくて何《な》っても怖っかなぃごとぁ無いぢゃぃ。」
「うんう、怖っかなぃ。」
「何ぁ怖っかなぃ。」
「風の又三郎ぁ云ったか。」
「何て云った。風の又三郎など、怖っかなぐなぃ。何て云った。」
「お父さんおりゃさ新らしきもの着せるって云ったか。」楢夫はまた泣きました。一郎もなぜかぞっとしました。けれどもお父さんは笑ひました。
「ああははは、風の又三郎ぁ、いゝ事《ごと》云ったな。四月になったら新らし着物買ってけらな。一向泣ぐごとぁなぃぢゃぃ。泣ぐな泣ぐな。」
「泣ぐな。」一郎も横からのぞき込んでなぐさめました。
「もっと云ったか。」楢夫《ならを》はまるで眼をこすってまっかにして云ひました。
「何て云った。」
「それがらお母《っか》さん、おりゃのごと湯さ入れで洗ふて云ったか。」
「ああはは、そいづぁ嘘《うそ》ぞ。楢夫などぁいっつも一人して湯さ入るもな。風の又三郎などぁ偽《うそ》こぎさ。泣ぐな、泣ぐな。」
お父さんは何だか顔色を青くしてそれに無理に笑ってゐるやうでした。一郎もなぜか胸がつまって笑へませんでした。楢夫はまだ泣きやみませんでした。
「さあお飯《まま》食べし泣ぐな。」
楢夫は眼をこすりながら変に赤く小さくなった眼で一郎を見ながら又言ひました。
「それがらみんなしておりゃのごと送って行ぐて云ったか。」
「みんなして汝《うな》のごと送てぐど。そいづぁなぁ、うな立派になってどごさが行ぐ時ぁみんなして送ってぐづごとさ。みんないゝごとばがりだ。泣ぐな。な、泣ぐな。春になったら盛岡祭見さ連《つれ》でぐはんて泣ぐな。な。」
一郎はまっ青になってだまって日光に照らされたたき火を見てゐましたが、この時やっと云ひました。
「なあに風の又三郎など、怖《お》っかなぐなぃ。いっつも何だりかだりって人だますぢゃぃ。」
楢夫もやうやく泣きじゃくるだけになりました。けむりの中で泣いて眼をこすったもんですから眼のまはりが黒くなってちょっと小さな狸《たぬき》のやうに見えました。
お父さんはなんだか少し泣くやうに笑って
「さあもう一《ひと》がへり面《つら》洗なぃやなぃ。」と云ひながら立ちあがりました。
二、峠
ひるすぎになって谷川の音もだいぶかはりました。何だかあたたかくそしてどこかおだやかに聞えるのでした。
お父さんは小屋の入口で馬を引いて炭をおろしに来た人と話してゐました。ずゐぶん永いこと話してゐました。それからその人は炭俵を馬につけはじめました。二人は入口に出て見ました。
馬はもりもりかひばをたべてそのたてがみは茶色でばさばさしその眼は大きくて眼の中にはさまざまのをかしな器械が見えて大へんに気の毒に思はれました。
お父さんが二人に言ひました。
「そいでぁうなだ、この人さ随《つ》ぃで家さ戻れ。この人ぁ楢鼻《ならはな》まで行がはんて。今度の土曜日に天気ぁ好がったら又おれぁ迎ぃに行がはんてなぃ。」
あしたは月曜日ですから二人とも学校へ出るために家へ帰らなければならないのでした。
「そだら行がんす。」一郎が云ひました。
「うん、それがら家さ戻ったらお母《っか》さんさ、ついでの人さたのんで大きな方の鋸《のこぎり》をよごして呉《け》ろって云へやぃな、いゝが。忘れなよ。家まで丁度一時半かゞらは※[#小書き平仮名ん、246−2]てゆっくり行っても三時間半にあ戻れる。のどぁ乾ぃでも雪たべなやぃ。」
「うん。」楢夫《ならを》が答へました。楢夫はもうすっかり機嫌《きげん》を直してピョンピョン跳んだりしてゐました。
馬をひいた人は炭俵をすっかり馬につけてつなを馬のせなかで結んでから
「さ、そいで
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