いた雪のこなが少しばかりちらっちらっと二人の上から落ちて参りました。
「さあ楢夫、早ぐのぼれ、雪降って来た。上さ行げば平らだはんて。」一郎が心配さうに云ひました。
楢夫は兄の少し変わった声を聞いてにはかにあわてました。そしてまるでせかせかとのぼりました。
「あんまり急ぐな。大丈夫だはんて、なあにあど一里も無ぃも。」一郎も息をはづませながら云ひました。けれどもじっさい二人とも急がずに居られなかったのです。めの前もくらむやうに急ぎました。あんまり急ぎすぎたのでそれはながくつゞきませんでした。雪がまったくひどくなって来た方も行く方もまるで見えず二人のからだもまっ白になりました。そして楢夫《ならを》が泣いていきなり一郎にしがみつきました。
「戻るが、楢夫。戻るが。」一郎も困ってさう云ひながら来た下の方を一寸《ちょっと》見ましたがとてももう戻ろうとは思はれませんでした。それは来た方がまるで灰いろで穴のやうにくらく見えたのです。それにくらべては峠の方は白く明るくおまけに坂の頂上だってもうぢきでした。そこまでさへ行けばあとはもう十町もずうっと丘の上で平らでしたし来るときは山鳥も何べんも飛び立ち灌木《くわんぼく》の赤や黄いろの実もあったのです。
「さあもう一あしだ。歩《あ》べ。上まで行げば雪も降ってなぃしみぢも平らになる。歩べ、怖《お》っかなぐなぃはんて歩べ。あどがらあの人も馬ひで来るしそれ、泣がなぃで、今度ぁゆっくり歩べ。」一郎は楢夫の顔をのぞき込んで云ひました。楢夫は涙をふいてわらひました。楢夫の頬《ほほ》に雪のかけらが白くついてすぐ溶けてなくなったのを一郎はなんだか胸がせまるやうに思ひました。一郎が今度は先に立ってのぼりました。みちももうそんなにけはしくはありませんでしたし雪もすこし薄くなったやうでした。それでも二人の雪沓《ゆきぐつ》は早くも一寸も埋まりました。
だんだんいたゞきに近くなりますと雪をかぶった黒いゴリゴリの岩がたびたびみちの両がはに出て来ました。
二人はだまってなるべく落ち着くやうにして一足づつのぼりました。一郎はばたばた毛布をうごかしてからだから雪をはらったりしました。
そしていゝことはもうそこが峠のいたゞきでした。
「来た来た。さあ、あどぁ平らだぞ、楢夫。」
一郎はふりかへって見ました。楢夫は顔をまっかにしてはあはあしながらやっと安心したやうにわら
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