ミながら
はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを
交錯するひかりの棒を過ぎり
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた
わたくしはその跡をさへたづねることができる
そこに碧い寂かな湖水の面をのぞみ
あまりにもそのたひらかさとかがやきと
未知な全反射の方法と
さめざめとひかりゆすれる樹の列を
ただしくうつすことをあやしみ
やがてはそれがおのづから研かれた
天の瑠璃の地面と知つてこゝろわななき
紐になつてながれるそらの楽音
また瓔珞やあやしいうすものをつけ
移らずしかもしづかにゆききする
巨きなすあしの生物たち
遠いほのかな記憶のなかの花のかをり
それらのなかにしづかに立つたらうか
それともおれたちの声を聴かないのち
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や笑気《せうき》のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまつ青になつて立ち
立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち
(わたくしがいまごろこんなものを感ずることが
いつたいほんたうのことだらうか
わたくしといふものがこんなものをみることが
いつたいありうることだらうか
そしてほんたうにみてゐるのだ)と
斯ういつてひとりなげくかもしれない……
わたくしのこんなさびしい考は
みんなよるのためにできるのだ
夜があけて海岸へかかるなら
そして波がきらきら光るなら
なにもかもみんないいかもしれない
けれどもとし子の死んだことならば
いまわたくしがそれを夢でないと考へて
あたらしくぎくつとしなければならないほどの
あんまりひどいげんじつなのだ
感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもつてばかりゐてはいけない
ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
あらたにどんなからだを得
どんな感官をかんじただらう
なんべんこれをかんがへたことか
むかしからの多数の実験から
倶舎がさつきのやうに云ふのだ
二度とこれをくり返してはいけない
おもては軟玉《なんぎよく》と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいつぱいだ
巻積雲《けんせきうん》のはらわたまで
月のあかりはしみわたり
それはあやしい蛍光板《けいくわうばん》になつて
いよいよあやしい苹果の匂を発散し
なめらかにつめたい窓硝子さへ越えてくる
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはひるとき……
     ※[#始め二重パーレン、1−2−54]おいおい あの顔いろは少し青かつたよ※[#終わり二重パーレン、1−2−55]
だまつてゐろ
おれのいもうとの死顔が
まつ青だらうが黒からうが
きさまにどう斯う云はれるか
あいつはどこへ堕ちようと
もう無上道に属してゐる
力にみちてそこを進むものは
どの空間にでも勇んでとびこんで行くのだ
ぢきもう東の鋼もひかる
ほんたうにけふの……きのふのひるまなら
おれたちはあの重い赤いポムプを……
     ※[#始め二重パーレン、1−2−54]もひとつきかせてあげよう
      ね じつさいね
      あのときの眼は白かつたよ
      すぐ瞑りかねてゐたよ※[#終わり二重パーレン、1−2−55]
まだいつてゐるのか
もうぢきよるはあけるのに
すべてあるがごとくにあり
かゞやくごとくにかがやくもの
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
     ※[#始め二重パーレン、1−2−54]みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない※[#終わり二重パーレン、1−2−55]
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます
[#地付き](一九二三、八、一)
[#改ページ]

  オホーツク挽歌


海面は朝の炭酸のためにすつかり銹びた
緑青《ろくしやう》のとこもあれば藍銅鉱《アズライト》のとこもある
むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい瑠璃液《るりえき》だ
チモシイの穂がこんなにみじかくなつて
かはるがはるかぜにふかれてゐる
  (それは青いいろのピアノの鍵で
   かはるがはる風に押されてゐる)
あるいはみじかい変種だらう
しづくのなかに朝顔が咲いてゐる
モーニンググローリのそのグローリ
  いまさつきの曠原風の荷馬車がくる
  年老つた白い重挽馬は首を垂れ
  またこの男のひとのよさは
  わたくしがさつきあのがらんとした町かどで
  浜のいちばん賑やかなとこはどこですかときいた時
  そつちだらう 向ふには行つたことがないからと
  さう云つたことでもよくわかる
  いまわたくしを親切なよこ目でみて
   (その小さなレンズには
    たしか樺太の白い雲もうつつてゐる)
朝顔よりはむしろ牡丹《ピオネア》のやうにみえる
おほきなはまばらの花だ
まつ赤な朝のはまなすの花です
 ああこれらのするどい花のにほひは
 もうどうしても 妖精のしわざだ
 無数の藍いろの蝶をもたらし
 またちひさな黄金の槍の穂
 軟玉の花瓶や青い簾
それにあんまり雲がひかるので
たのしく激しいめまぐるしさ
   馬のひづめの痕が二つづつ
   ぬれて寂まつた褐砂の上についてゐる
   もちろん馬だけ行つたのではない
   広い荷馬車のわだちは
   こんなに淡いひとつづり
波の来たあとの白い細い線に
小さな蚊が三疋さまよひ
またほのぼのと吹きとばされ
貝殻のいぢらしくも白いかけら
萱草の青い花軸が半分砂に埋もれ
波はよせるし砂を巻くし


白い片岩類の小砂利に倒れ
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物《カーペツト》と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草《ブリーベル》とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
それにだいいちいまわたくしの心象は
つかれのためにすつかり青ざめて
眩ゆい緑金にさへなつてゐるのだ
日射しや幾重の暗いそらからは
あやしい鑵鼓の蕩音さへする


わびしい草穂やひかりのもや
緑青《ろくしやう》は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない
とゞ松やえぞ松の荒さんだ幹や枝が
ごちやごちや漂ひ置かれたその向ふで
波はなんべんも巻いてゐる
その巻くために砂が湧き
潮水はさびしく濁つてゐる
 (十一時十五分 その蒼じろく光る盤面《ダイアル》)
鳥は雲のこつちを上下する
ここから今朝舟が滑つて行つたのだ
砂に刻まれたその船底の痕と
巨きな横の台木のくぼみ
それはひとつの曲つた十字架だ
幾本かの小さな木片で
HELL と書きそれを LOVE となほし
ひとつの十字架をたてることは
よくたれでもがやる技術なので
とし子がそれをならべたとき
わたくしはつめたくわらつた
  (貝がひときれ砂にうづもれ
   白いそのふちばかり出てゐる)
やうやく乾いたばかりのこまかな砂が
この十字架の刻みのなかをながれ
いまはもうどんどん流れてゐる
海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
 (Casual observer ! Superficial traveler !)
空があんまり光ればかへつてがらんと暗くみえ
いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる
あんなにかなしく啼きだした
なにかしらせをもつてきたのか
わたくしの片つ方のあたまは痛く
遠くなつた栄浜の屋根はひらめき
鳥はただ一羽硝子笛を吹いて
玉髄の雲に漂つていく
町やはとばのきららかさ
その背のなだらかな丘陵の鴾いろは
いちめんのやなぎらんの花だ
爽やかな苹果青《りんごせい》の草地と
黒緑とどまつの列
 (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
五匹のちひさないそしぎが
海の巻いてくるときは
よちよちとはせて遁げ
 (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
浪がたひらにひくときは
砂の鏡のうへを
よちよちとはせてでる
[#地付き](一九二三、八、四)
[#改ページ]

  樺太鉄道


やなぎらんやあかつめくさの群落
松脂岩薄片のけむりがただよひ
鈴谷山脈は光霧か雲かわからない
  (灼かれた馴鹿の黒い頭骨は
   線路のよこの赤砂利に
   ごく敬虔に置かれてゐる)
 そつと見てごらんなさい
 やなぎが青くしげつてふるへてゐます
 きつとポラリスやなぎですよ
おお満艦飾のこのえぞにふの花
月光いろのかんざしは
すなほなコロボツクルのです
  (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
Van't Hoff の雲の白髪の崇高さ
崖にならぶものは聖白樺《セントベチユラアルバ》

青びかり野はらをよぎる細流
それはツンドラを截り
   (光るのは電しんばしらの碍子)
夕陽にすかし出されると
その緑金の草の葉に
ごく精巧ないちいちの葉脈
   (樺の微動のうつくしさ)
黒い木柵も設けられて
やなぎらんの光の点綴
 (こゝいらの樺の木は
  焼けた野原から生えたので
  みんな大乗風の考をもつてゐる)
にせものの大乗居士どもをみんな灼け
太陽もすこし青ざめて
山脈の縮れた白い雲の上にかかり
列車の窓の稜のひととこが
プリズムになつて日光を反射し
草地に投げられたスペクトル
 (雲はさつきからゆつくり流れてゐる)
日さへまもなくかくされる
かくされる前には感応により
かくされた後には威神力により
まばゆい白金環《はくきんくわん》ができるのだ
  (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
たしかに日はいま羊毛の雲にはひらうとして
サガレンの八月のすきとほつた空気を
やうやく葡萄の果汁《マスト》のやうに
またフレツプスのやうに甘くはつかうさせるのだ
そのためにえぞにふの花が一そう明るく見え
松毛虫に食はれて枯れたその大きな山に
桃いろな日光もそそぎ
すべて天上技師 Nature 氏の
ごく斬新な設計だ
山の襞《ひだ》のひとつのかげは
緑青のゴーシユ四辺形
そのいみじい玲瓏《トランスリユーセント》のなかに
からすが飛ぶと見えるのは
一本のごくせいの高いとどまつの
風に削り残された黒い梢だ
  (ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
結晶片岩山地では
燃えあがる雲の銅粉
   (向ふが燃えればもえるほど[#底本では行末に「)」]
    ここらの樺ややなぎは暗くなる)
こんなすてきな瑪瑙の天蓋《キヤノピー》
その下ではぼろぼろの火雲が燃えて
一きれはもう錬金の過程を了へ
いまにも結婚しさうにみえる
 (濁つてしづまる天の青らむ一かけら)
いちめんいちめん海蒼のチモシイ
めぐるものは神経質の色丹松《ラーチ》
またえぞにふと桃花心木《マホガニー》の柵
こんなに青い白樺の間に
鉋をかけた立派なうちをたてたので
これはおれのうちだぞと
その顔の赤い愉快な百姓が
井上と少しびつこに大きく壁に書いたのだ
[#地付き](一九二三、八、四)
[#改ページ]

  鈴谷平原


蜂が一ぴき飛んで行く
琥珀細工の春の器械
蒼い眼をしたすがるです
   (私のとこへあらはれたその蜂は
    ちや
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