》して話しておりました。
「たしか、この木にいるに相違ありません。」と、一人の土人が申しました。
「そうかね。」と、長い柄《え》の網をもった人がきらりと眼鏡《めがね》を光らせて、蟹の登っている枝のあたりを見上げました。
「成程《なるほど》、あの葉のかげに妙なものが見えるようだね。」
すると、もう一人の洋服を着た人が申しました。
「じゃ誰《だれ》か木に登って、つかまえて貰《もら》おうか。」
土人の一人は手でもって椰子の幹《みき》を抱き、足でもってそれを突張《つっぱ》りながら、そろそろと登ってまいりました。
樹の上で椰子蟹は、始めて自分をつかまえに来たものだとさとりました。一体これまで椰子蟹は誰からもつかまえられようとしたことはありませんでした。ただ土人の子供が時に追いかけるぐらいのことでしたから、今の今まで自分をおさえに来るのだとは思わず、安閑《あんかん》としていたのですが、登ってくる土人は、だんだんと近づいて来ますから、それにつれて自分もだんだん、上へ上へとのぼって行きました。そして、とうとうこれでもうおしまいというところまで来たとき、土人の手が用心しいしい、少しずつ自分の体《からだ》に迫ってきました。もう絶体絶命です。蟹は恐ろしく泡《あわ》を吹きながら、その大きな鋏《はさみ》を構えて、手を出したら最後、その指を椰子の実のようにチョン切ってやるぞと待っていました。そうなると人間の方でも、うっかり手が出せません。何やら大きな声で、下の方へ申しますと、洋服を着た男が、
「じゃこの網を君もって、のぼってくれ。」ともう一人の土人に言いつけました。そこでその土人は網をもって後から登ってまいりました。もう蟹は遁《のが》れることはできません。網を一打ち、バッサリとやられればそれでおしまいです。蟹はその時下を見ました。高い高い椰子の樹のてっぺんから見下《みおろ》したのは、深い深い底も知れない海、怪物が住まっている海でした。蟹はその中に自分も住まっているのですが、こう高いところから見下すと、不思議にぞっとする程気味が悪いのでした。で、そっちを見ないようにして、上の土人が網を受取っている暇《ひま》を狙《ねら》って、鋏をあげ、えらい勢《いきおい》でそいつを目がけて飛びついて行きました。べつにはさんでやろうというのではなく、ただ脅《おど》かしておいて、そのひまに遁《に》げるつもりだったのです。
「アッ。」という人の声が聞えただけ、蟹はあとはどうなったか知りません。ただ自分の体が水にザブンと音を立てて入っただけ、そしてその次には深く深く沈んで行く自分の足が、何やらふわふわと柔かいものにさわり、それから又ぐんぐん元来た方へ引き戻されたことだけをおぼえています。本当に気がついたときには、狭い暗い箱の中におりました。椰子の樹から海へ落ちたところを、すぐ網で掬《すく》い上げられたのでした。
四
蟹《かに》はこうして箱のまま汽船の甲板《かんぱん》に積み込まれ、時々|汐《しお》につけられ、時々|蓋《ふた》を少しあけては古臭いコプラを喰べさされました。そこには夜もなく、昼もありません。いつも真暗《まっくら》で、いつも変な臭《にお》いがして、そうぞうしい音や、人の声がしております。蟹は日本から来た学者たちに生きた標本として、捕《とら》われたのでした。けれども自分ではそんなことは知りません。ただいつもいつも窮屈な思いばかりしておりました。けれども一番困ったのは暗いのよりも臭いのよりも、そうぞうしいのよりも、寒くなって来ることでした。が、暑いところで生れ、熱いところで育った蟹には寒いということは分りませんでした。
「何だか甲羅《こうら》の中で身が縮んでしまう。妙に熱くて、甲羅がピリピリ痛い。」と、蟹は思いました。熱いくるしみだけより知らない蟹には、寒いときの苦しさもやはり熱いからだと思ったのです。
こんなことが余程《よほど》ながく続きましたので、蟹はすっかり弱ってしまいました。甲羅の色も悪くなり、足も二本ばかりぼろぼろになってもげてしまいました。すると或《ある》ときでした。人が箱の蓋をしっかり閉《し》めるのを忘れたと見え、いっもとちがって、蒼白《あおじろ》い光りが上の方からさして来ます。蟹は不思議に思って、大分《だいぶ》不自由になった足を動かして、その光の漏れる穴のところへ行ってみました。穴はかなりに大きくて、蟹はすぐそこから這《は》い出すことが出来ました。
外は十二月の夜で、月が真白《まっしろ》い霜にさえておりました。蟹の出たのは神戸《こうべ》の或《ある》宿屋の中庭だったのです。あたりはしんとしております。蟹はふしぎそうに見廻《みまわ》しますと、そこに一本の樹があって、それに実がなっております。
「椰子の実だ。椰子の実だ。」
蟹はわずか
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