右斜、前方の水平線に三本煙突、二本マストの巨船が、こちらの航路をおさへるやうに走つて来る。四段にかまへた甲板、舳《へさき》や艫《とも》の形などからして、勿論《もちろん》、軍艦ではない。旅客船だ。
速い、速い! 見る/\うちに双方の距離が五千メートルになつた。と忽ち、その前檣《ぜんしやう》にさら/\と上がつたのはドイツの鉄十字! あゝ、つひに恐しい海の上の狼《おほかみ》、「ウルフ号」は現れた。羊《ひつじ》の皮を着た狼とは、まさしくこのことである。表面は平和な客船に見えてゐるけれど、艦長が電気|釦《ぼたん》を一つ押せば、忽《たちま》ち武装いかめしい軍艦に変るのだ。今まで何にも見えなかつた舷側には、この時|俄《には》かに砲門がずらりと開いて、大砲がによき/\[#「によき/\」に傍点]と頭を出し、前後の甲板には十八サンチ砲がにゆうつ[#「にゆうつ」に傍点]とせり上つた。
と、忽ち、その横檣《わうしやう》に万国信号旗がひら/\と上つた。中原はそれを見て、さも軽蔑《けいべつ》するやうに言つた。
「ふん、海賊のおきまりの脅《おど》し文句だ。『止れ、我、汝《なんぢ》に語るべき用事あり。』と言ふんだらう。信号簿をくつて見るまでもないや。」
「生意気な!」と、下村がそれを受継いで呶鳴《どな》つた時、ドンとすさまじい音を立てて、こつちの十二サンチが打出した。それと同時に檣頭高く日章旗が翻つた。これが「ウルフ号」の信号に対する日本男児の答であつた。
「うまいぞ、かう来なくちや!」
下村がむやみに興奮してゐるうち、豊国丸は続けさまに打《ぶ》つ放した。
一発遠く、二発近く、三発命中!
命中、又命中、四門ではあるが砲射の技術にかけては、世界にほこる日本の海軍兵だ。見る/\「ウルフ号」の甲板は滅茶滅茶《めちやめちや》に打ちこはされた。勿論《もちろん》、敵もこれしきのことにひるむやうな弱虫ではない。その十八サンチの主砲をはじめ、十サンチの副砲が猛烈に火をふきだした。しかし、敵はこちらを余りに弱いものと見くびつて、油断をしてゐたので、はじめの程の砲撃は徒《いたづら》に魚を驚かしたに過ぎなかつた。
とは言へ、大人と子供とでは角力にならない。間もなく独艦の精鋭クルツプ砲は恐るべき威力を見せ出した。十八サンチの一弾は豊国丸の煙筒《えんとつ》を根本からもぎ取つた。十サンチの砲弾は舷側に蜂《はち》の巣のやうに穴をあけた。もしその一発でもが、積んでゐる水雷か、砲弾にか当らうものなら!
そのうち、だん/\時が経《た》つにつれて、海図室をやられる。操舵機《さうだき》をこはされる。おまけに大事な前部の十二サンチ砲は敵弾を受け、砲身が曲つたり砲架をいためられたりして、砲員も死傷して、とう/\二門とも発砲が出来なくなつた。後部の二門もこの時、別な理由でだめになつた。
「弾薬がつきました。監督大尉!」
後部の掌砲兵《しやうはうちやう》が悲痛の声を絞つて、伝声管《ボーイス・チユーブ》に口を寄せて叫んだ。けれども伝声管《ボーイス・チユーブ》はもう敵弾にいたんでゐるので、船橋《ブリツヂ》へは通じない。よし通じても、監督の堀大尉は戦死してゐた。砲のことは素人の船長には分らない。いや、その船長も既に重傷を負うて、船の指揮は今一等運転士がつかさどつてゐる。
「せめてもう一発でも――畜生もう一発あれば、あの艦橋《ブリツヂ》にドカンと打《ぶ》つくらはしてやるんだが! ちえツ、残念だ!」
掌砲長が砲の把手《ハンドル》を握りしめて、口惜しさうに敵を睨《にら》んで叫ぶのを、嘲笑《あざわら》つてでもゐるやうに、敵弾はぶん/\飛んで来て、ところきらはず命中するそれだのに、こちらからは答へる弾薬が尽きてしまつたのだ。いよいよ自ら爆沈すべき最後の時がせまつて来た。
二
非壮な瞬間だ。と、突然、後部の巻揚機《ウインチ》ががら/\と凄《すさま》じい響を出して、その五六本の鋼条《ワイヤー》の先に吊《つ》るした鈎《かぎ》づきの滑車が弾薬庫にする/\と滑りこんだ。それを真つ先に見つけたのは掌砲長《しやうはうちやう》だつた。
「やア有難い。えらいぞ下村《しもむら》! 積荷の弾薬に気がついたのか。しつかりやつてくれ!」
掌砲長は、下村が弾薬を自分の方へ廻《まは》してくれるものと思つたので、躍り上つて悦《よろこ》んだ。しかし巻揚機《ウインチ》の滑車の鈎について上つて来たのは弾薬箱ではなくて、二十一インチの素晴しく大きな魚雷で、その上に中原《なかはら》が跨《また》がつてゐた。
「何だ、馬鹿《ばか》々々しい。水雷と弾薬とを間違へる奴《やつ》があるか、あわて者、しつかりしろ!」
掌砲長はぷり/\して呶鳴《どな》つたが、あたりが騒がしいので、向ふまで聞えなかつたのか、下村も中原も、そつちを見向きさへ
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