愛人と厭人
宮原晃一郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)云々《うんぬん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昔|流行《はや》つた

[#]:入力者注 主に外字の注記や傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\な意見
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 有島武郎[#「有島武郎」に丸傍点]君の「惜みなく愛は奪ふ」は出版されるや否や非常な売れ行きであるさうな。しかし売れ行きといふことが直にその本の真価を示すものではないと同時に、売れ行く本は直に俗受けのものと独断して、文壇の正系(?)が之を無視するのはよくないことだ。過般有島君の芸術を通じてその生活を一般が云々《うんぬん》することについて、中央文学に一寸《ちよつと》書いた時、「三部曲」の批評が出なかつたことを指摘して置いたが、此本の「後書」を見ると、矢張りあの書に対する批評は賀川[#「賀川」に丸傍点]氏ものゝみが只一つ公にされたつきりであつたさうな。自分は武郎[#「武郎」に丸傍点]君の門下でもなければ、乾分《こぶん》でもないのだから、敢《あへ》て阿諛《おべつか》をつかつて彼是言はねばならぬ義務は持たぬが、当然問題となるべき「三部曲」の批評が一つも文学雑誌――少なくとも文芸をその要素の一つとする雑誌や新聞に、殆ど一言半句ものせられなかつた不公正に対して、自分は親友としては勿論、仮りに無関係な立場にある人としても非常に遺憾とするものである。従つて今度出た「惜みなく愛は奪ふ」は武郎[#「武郎」に丸傍点]君が五ヶ年の心血を注いで、その思想上の頂点を為すものと言はれてゐるだけに、決して同一の不公正が行はれはすまいと思ひながらも、又一方にはなほその懸念がないでもない。願はくは之は自分の杞憂であつて呉れゝばいゝが。
 自分が彼の書を読んだところでは、武郎君はその思想を自我の肯定にまで溯りデカルトの Cognito ergo sum の代りに、Cognosco ergo sum だといつてゐる。併し表現の方法は哲学的の論文ではなく論文の形を借りた詩である。組織されたる思想といふよりも寧ろ生み出された思想といふが適当だ。然らばその生み出された思想とは何かと云へば、それは愛だ。啻《ただ》に最近五年間といはず、有島君が最初から目指してきた、又総て武郎[#「武郎」に丸傍点]君の生命活動の主動《ライトモチフ》を為した愛が、此処にその全我の大肯定の下《もと》に、自らを確立したのである。武郎[#「武郎」に丸傍点]君の愛なるものゝ本質が何であるか、惜みなく奪ふ愛そのものである主我は他の多くの同様な主我と如何に対立共存し得られるか、武郎[#「武郎」に丸傍点]君の見るところ、説くところ、信ずるところに対してきつといろ/\な意見が発表せられるであらうし、又さういふことを論じ合ふのは、下らぬ揚足とりや、与太話よりも、ズツトましであるから、大なる期待を以て自分は観てゐるのである。
 然し自分は此処に「惜みなく愛は奪ふ」の批評をする積りでもなければ、武郎[#「武郎」に丸傍点]君の人生観を彼是言ふものでもない。只之を所縁としてつく/″\と感じたことを述べてみたいのである。
 他人のことを言ふ資格のない私は矢張り自分のことを言ふ。私は「惜みなく愛は奪ふ」を読んで、今更に自分の生き永らへてゐることを奇怪に、恥辱に、又恐ろしくさへ思つた。一体自分は考へてみると善にしろ、悪にしろさう大した桁外《けたは》づれではない。平たく言へば凡骨だ。君は立派な人格の所有者だなんかと、過つて言はれでもすると、内心頗る忸怩《ぢくぢ》たるものがあるが、さりとて偽善者だと名乗つてそれを打消すにも価ひしないと自分を侮つてゐる。然し悪に対する自分の態度は寸毫も仮借しない激烈を極めてゐる。邪悪といふものは真黒々で、そこには一点の光明を認めることが出来ない、そして此暗黒は光りのあるところに陰の必ず伴ふ如く、善に伴つてゐる。否寧ろ暗い夜に灯火をつけるやうに、大きな暗は小さな光りを隠くさんとする。是は今日の文壇に主潮を為してはゐないかと思はれる人道主義的傾向とも、又有りふれた道徳観念とも正反対である。自分には今、どんな堕落した人間の裡にも神の光りを認める偉大なドストイエヴスキイの亜流で世の中が満ちてゐるやうに見える。その証拠は此観念を裏切る典型の一人を描かうものなら、批評家は直ぐに、うまくは描けたが、もつと人間らしいところを見てやるべきと言ふ。即ち文学者たる者は、その作に、お菓子に砂糖のいる
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