ゐなかつたのでしたが、彼のおかげで初めて、劇らしい劇が演じられるやうになつたのですから、彼はまたデンマルク、ノルウェイ劇界の元祖ともいふべきでありませう。
十四、抒情詩人の群れ
ホルベルが劇に活動してゐる間に多くの抒情詩人が出ましたが、その中でエ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ル Ewald は全歐洲にも匹敵するものが外にないと言はれたほどの大詩人で、一七五一年フレデリック五世 Frederik V. が招聘したドイツの有名な詩人クロップシュック Klopstock の影響を受け、のち、よくその短所をすて、自ら大を爲した人で、今日もなほデンマルクの國歌として愛誦せられてゐる『クリスチャン王は高き帆柱に近く立つ』Kong Christian stod ved hoje Mast や、『小さなグンヴォル』Llille Gunvor などの作があります。
エ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルと並び稱せられるものに、ウェッセール Wessel があります。『靴下のない戀愛』といふフランス古典主義風の悲劇は當時劇界に流行したフランス趣味をきはめて烈しく詈つたものでありました。當時、デンマルクではフランス文化の讃美者たちとドイツ文化の擁護者たちなどが各々、ノルウェイ協會、デンマルク協會とを組織して爭つてゐました。エ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルはデンマルク協會を建てた一人で、ドイツ派でありましたが、ウェッセールはノルウェイ教會の最も優れた協會員でありました。さうでありながら、始終フランス文化排斥の急先鋒に立つたのは奇であります。エ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルは三十八歳、ウェッセールは四十三歳で共に夭折致しました。
十五、スウェデンの黄金時代
一方、スウェデンでは一五六〇年頃から一七五〇年頃までは、文化の黄金時代といはれたほどで、グスターヴ・アドルフス Gustav Adolfus やカール二世 Karl II. 等の名君が學問を奬勵して、文學の隆盛となりました。スウェデン詩歌の元祖スチェルンエルム Stjernhjelm はこの時に出ました。ルネッサンス Renaisance の新原則を應用して、巧みにこれをスウェデン語と國民性とに適合せしめて、純藝術詩の基礎を定めました。スウェデンボーリ、即ち神祕主義で有名な所謂スウェデンボルグもこの時代の人であります。
千七百年代から、ローマン主義時代までのスウェデンでは、フランスのクラッシク文學をまねた典雅な擬古典主義文學が隆盛で、スチェルンエルム以後の詩人は言葉の清醇と作詩の自由とを妨げられました。
この時代を代表するものはオローフ・ダーリン Olof Dalin で、そのすぐれた形式と、機智とで名があります。この時代にスウェデン語は文學、科學の用語として、動かし難い位置を占めました。
一七八〇年から一八〇九年までが、有名なグスターヴ三世 Gustaf III. の治下で、スウェデンのアウグスツス時代といはれるほど文化の隆盛を見ました。今日ノーベル賞を銓衡するスウェデン學士院 Svenska Akademien の建つたのもこの時です。この時代にも詩人は二派に分かれ、一方はフランス文學の華麗を慕ひ、他は國民文學の權威を主張しました。フランス派の驍將はヘンリク・チェルグレン Henrik Kelgren で、形式の整つた詩を書いて、美學に精通してゐました。これに對して、國民派の大詩人はミカエル・ベルマン Michael Bellman でありました。初めダーリンの弟子で『月』Maanen といふフランス式の詩を處女作として書きましたが、後ち、國民の日常生活をうたふ詩人として不朽の名を殘し、今日でもベルマン祭が行はれてゐるほど一般に愛好せられてをります。
十六、ロマン主義運動
ドイツに始まつたローマン主義運動は十九世紀の始まると共にスカンヂナヴィアにもはいつて來ました。中にもデンマルクでは最も美しい實を結びました。このローマン主義の輸入者はドイツ生れのスタッフェルト A. W. Staffeldt で、一時はエー※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ル以來の大抒情詩人と言はれましたが、間もなく、その感化を受けたエーレンシュレーゲル 〔Oehlenschla:ger〕 にすつかり壓倒されて了ひました。エーレンシュレーゲルはドイツ人を父にもち、母もドイツで教育を受けたデンマルク婦人で、自分でもよくドイツ語で著作したといひます。彼の作でよく引き合ひに出されるのは『アラディン、或は不思議なランプ』であります。ゲーテの知己であり、ヘッベル Hebbel とも交はりがあつて、半分はドイツ人で、全然ドイツ・ローマン派の影響の下に立つた人であります。
デンマルクのローマンチストと言へば、私共はハンス・クリスチャン・アンネルセン H. C. Andersen 所謂アンデルセンを忘れることは出來ません。アンデルセンといへば、直に鴎外の『即興詩人』を想ひ出すほど、我々には知られてをります。私もその現代語譯を出すと間もなく、大地震で、絶版となりました。童話の作家としては王位にある人ですが、他の方面ではそれほどではありません。
十七、自我主義の詩人哲學者
ロマンチズムは哲學思想の方面で詩人哲學者キェルケゴォル S. A. Kierkegaard を出しました。彼の大著『あれか、これか』Enten−eller『人生の段階』『哲學小論』『哲學小論集成』等は日記、書簡論文、説教などの形で書いた、秀れた文學であります。自我的、厭世的、虚無的でありながら、キリスト教的敬虔な思想はスカンヂナヴィア文學者たちに、たとへばイプセンに、またストリンドベーリに大なる影響を與へ、引いては歐洲、近代思想の先驅者の一人に數へられるに至りました。彼の思想は近年ます/\歐洲の哲學思想に大きな影響を與へてゐると申します。私は自分が譯した『憂愁の哲理』のなかから、彼の警句の一、二を引いて彼の思想のほんの一端をのぞいてみたいと存じます。
「大人は少年の夢を實現するものである。人はその實例をスウィフトに見る。彼はその少年時代に癲狂院を建て、成年の後、自らその中に收容された。」
また――
「芝居の脇道具で火事が起つた。道化師《ピエロォ》が舞臺の前に立つて、觀客にそれを知らした。觀客はピエロォの洒落と思つて喝采した。ピエロォは重ねて火事を知らした。然るに人々はます/\笑つて喝采した。私は思ふ、世はこの樣に、それを洒落だと思つてゐる洒落者共の一般的歡迎のうちに亡びてしまふだらうと。」
キェルケゴォルの大著『あれか、これか』や『人生の段階』は、文學としてもニイチェの『ツァラツゥストラ』に勝るとも劣らぬものであります。
十八、スウェデンのローマン主義
スウェデンへはデンマルクを通してローマン主義が入りました。此の派の詩人で有名なものはアルムクヴィスト Armkvist、テグネール Tegner、リュドベーリ Rydberg でありますが、中にもテグネールは有名で、其の『フリーヂョフ物語』Fridjef saga は英獨語にも幾度も飜譯されました。それまでスウェデンは軍事的政治的に、中央歐羅巴に勢力をふるつたことはありましたが、文學は一向駄目であつたのを、テグネールのおかげで進出することが出來ました。
十九、反動來る
斯く盛んなローマン主義に反動が來ました。それは一八七七年にデンマルクの大批評家ゲオルグ・ブランデス Georg Brandes によりフランス流の自然主義が鼓吹されたからであります。ブランデスほどスカンヂナヴィア文學を指導し、またその隱れた寶玉を發見して、内外に紹介した人はほかにありません。キェルケゴォルも、イプセンもハムスン Hamsun も、この人が有力な紹介者の位置に立つてをります。
そこでデンマルクに自然主義がはひつて、ヤコプセン Jacobsen、ドラックマン Drachman 及びシャンドルフ Schandorph の三大家が出ました。ヤコプセンが最もローマン主義の臭ひのうすい作家で、よく外國にも知られ、ドラックマンは海洋小説家で、後ちにローマン派に復歸し、シャンドルフは最初から、ローマン派と自然派との間に板ばさみになり、ハムレットもどきに to be or not to be と苦しみましたが、その代表作『中心なく』Uden midtpunkt は流石に、フランス自然主義大家の筆を偲ばせるものがあります。その他ノーベル賞を受けたギェレルウプ Gjellerup、怪奇な筆を弄することロシアのアンドレエフに似たヘルマン・バング Herman Bang などありますが、此處には申しません。
二十、スウェデンの自然主義
スウェデンの方では、一八七九年に、アウグスト・ストリンドベーリ August Strindberg が『赤い部屋』Raada rummet を出したのが自然主義の始まりで、そのおかげで、スウェデン文學が一新され、エィエルスタム Geijerstam、ボート 〔Ba&a&th〕 オーラ・ハンソン Ola Hanson などが、その後を追ふやうになりました。ストリンドベーリについてはその劇の大部分と、小説の若干とが飜譯されて、いろいろ紹介もされてをりますから、私は此處には別に申し上げません。只一つ言ひたいことは、彼の自然主義的、或は社會主義的、コスモポリタンな一面だけより見ない在來の行き方に一歩を進め、スウェデンの歴史に、傳統に、力強い執着をもつ國民的な、又民族的な他の一面をも見て頂きたいといふことであります。
二十一、ノルウェイ文學の獨立
さて私は、ここで、しばらく閑却したノルウェイに歸らなければなりません。ノルウェイは一八一四年五月十七日、政治的にデンマルクから分離獨立はしましたが、一八三〇年頃迄は萬事が混亂して見るべき文學もなかつたのが、ウェルゲラン Wergeland とウェルハーヴェン Welhaven とが出て、やつと自國の文學を持つやうになりました。ウェルゲランは急進愛國家で、新しいノルウェイを直ちに昔のノルウェイに接合せよ、中間にあるデンマルク、ノルウェイ時代といふ怪しげなハンダを除き去れと叫び、ウェルハーヴェンは、その反對に漸進主義を唱へて、各々味方を得て、一八四五年ウェルゲランが死ぬまで、烈しく抗爭をつゞけました。
ウェルゲランの作は粗笨蕪雜で、只熱情があるのが取り柄で、ウェルハーヴェンの詩は優麗典雅で、用語は巧みを極めてゐますが、その缺點は纎細で、迫力がないことであります。ウェルゲランの代表作は『創造、人間及び救主』Skabelen, Mennesket af Messias といふ抒情的一大劇詩、ウェルハーヴェンのは『ノルウェイの黎明』〔Norges Da:mring〕 と題する詩集であります。この二詩人の後に來たのがアスビョルンソン Asbjornson とモー Moe で、我々にも知られた北歐民話の蒐集家であります。それからもう一人肝要な人物は、前にも申しました新ノルウェイ語、ランスモールの整理改造をしたイ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール・オーセン Ivar Aasen、此の人は抒情詩にもすぐれた人で、散文に妙を得てゐました。
然しイプセンがその史劇を書き、ビョルンソン 〔Bjo:rnson〕 が農民小説『シュンニエヴ・ソルバッケン 〔Synno:ve Solbakken〕(拙譯『日向丘の少女』)を書き出すに至つて、ノルウェイは初めてすぐれたローマン文學を有するに至り、七十年代の終り頃から、この兩詩人によつて、一躍世界文學の最高水準に達しました。
二十二、ノルウェイ文學多士濟々
此の兩者と並んで、ノルウェイで Den fire Store 即ち四大文豪と特別扱を受けるアレキサンドル・ヒェラン A
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