vamal や、雷神トォルの武勇、冐險をうたつた『ヒュミイルクヴィザ』Hymirkvidha や、それから、雷神が眠つてゐる間に、その大切な鎚を巨人にぬすまれて、それを取り戻しに、女裝して巨人の住居に行く、『スリュムスクヴィザ』Thrymskvidha はなか/\面白い作であります。
 神々の歌にはまだいろ/\の歌がありますが、それは略してこれから古英雄たちの歌のことを少しお話してみたいと思ひます。
『エッダ』の殆んど後半を占めてゐる古英雄たちの歌は、神話とはちがつてどうもスカンヂナヴィア原生のものでなく、中央ヨウロッパ、特に獨逸のものが、殆んど原形のまゝ、或はいくらかの北歐的修正を加へて、編入保存されたものが大部分を占めてゐまして、ノルウェイまたはスウェデン等に發生したと思はれるものは少ないのであります。たとへば、『エッダ』の中の最も古い傳説をうたつた『ヴェールンダル・クヴィザ』〔Vo:lundar kvidha〕 即ち、ヴェールンドの歌といふのがあります。これは熟練な金工ヴェールンドが、家出した妻の歸るのを待ちながら、拵へて置いた指環をニャールの王に奪はれ、剩へ、奴隸のやうに足の筋をきられて、ある島に禁錮せられた怨みから、王の二子をだまして殺し、指環を修繕に來た王女に暴行して、自分の工夫した翼をつけ、空をとんで逃げてしまつたといふ話ですが、これはドイツにある鍛冶ウイラントの話そのまゝで、ゲルマン民族に共通のものであります。
 それと反對に北歐固有のものと思はれるものの一例は『ヘルガ・クブィザ』Helga kvidha 即ちヘルギの歌であります。主人公のヘルギが※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルキューレ Valkyre の助けを得て、樣々の武勇をあらはすことを歌つたものであります。※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルキューレは、軍神オージン Odhin の侍女[#「侍女」は底本では「待女」]たちで、常に戰場の空をかけめぐつて戰死者があると、その傷を見て勇怯をたしかめ、勇者ならばオージンの住む※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルハラの宮殿につれてくるのが役目であります。この※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルキューレは全然スカンヂナヴィアのもので、それと、ヘルギとの戀愛的關係を持たせたところに、固有の面白さがあります。
       六、歐洲二大神話の一
『エッダ』は廣い意味に於ける北歐の傳説を比較的、原形を保つて殘してゐる點で貴重な文學であります。歐洲の二大神話のその一つである北歐神話は、可なり立派にその中に殘されてゐます。ひとりスカンヂナヴィアの文學者のみでなく、この寶典から、詩想を得た者は他の國でも澤山あります。例へば、リヒアルト・ワーグネルの歌劇は『エッダ』を元にして造つたといふが如き一例であります。
       七、特異の形式
『エッダ』の形式は獨特なもので、ごく短かい句毎の頭に重ねて行く、所謂頭韻をもつてゐます。たとへば、先程申しましたヴェルウスパーの初めの句は、
  Hliodhs, bidh ek allar, helgar kindir,
  meiri ok mini, 〔mo:gu〕 Heimdallar
となつてHの音や、Rの音、アラル、ヘルガール、ヘイムダラールと似た音がいくつも重なつてゐます。五、七、五七と幾つも句を重ね同じやうな言葉をくりかへして行くところは、萬葉の長歌と似たところがありませんか。
 次に新らしい『エッダ』即ちスノルイの『エッダ』はさきに申しましたやうに、スカルド歌謠の作例といつたやうなもので、舊い『エッダ』とは別な意味で面白いものでありますが、文學的にはそれほどのものとは思はれませんから、此處では略することに致します。『エッダ』はこれだけにして、次にはスカルドのことに移ります。
       八、スカルド歌謠
 スカルドとは元來詩人の意味でありますが、此處ではスカルドによつて作られた歌であります。この歌は只文字に書いて、默讀したのではなく、日本の平家物語のやうに節を附けて、歌はれたものであります。
 スカルドはその祖先をオージンの大神にもつてゐると申しますが、その守護神はブラギ Bragi であります。つまりブラギはギリシヤ、ローマのミューズの神、日本で言へば和歌三神に當るわけであります。スカルド詩人は大部分は朝廷に仕へたもので、常に君側にあつてその武徳をうたひ、或は戰場の有樣を描き、自らも軍に從つて、辛苦をなめたものであります。スカルドは斯うしていつも作者の主人の賞讃をうたつてばかりゐるところに、エッダとの相違があります。スカルドの形式はエッダと同樣でありますが、只エッダよりもずつと嚴密で、更にいろいろの法則が附加されてゐるだけであります。のみならず用語は同じ古代北歐語でも表現の仕方がエッダとちがひ、廻りつくどいので、不馴れの者にはよみづらいのです。たとへば舟のことを舟といはずに、波の馬といひ、白い浪頭を「波の牡山羊」といふたぐひです。これはケニンガアル kenningar といふ一種の隱喩でありますが、別にヘィティ Heiti といふのは全く違つた名をいふので、言はば符牒であります。たとへば、女といふ言葉を普通にコーネと言はないで、フリョード Flyod、またはスプルンド Sprund といふやうな類であります。これが解釋は後世の人に不可能でありますが、幸にも新らしい『エッダ』のスカルドスカパルマール Skaldskaparmal 即ち、スカルド作詩法にのつてゐるので分るのであります。
 スカルド詩人のうち、最も古いとせられてゐるのはウルフ Ulf でありますが、頗る達者な作家で一夜に一長篇をこしらへたといひます。そのほかスカルド詩人の中では、聖地で人殺しをしながら、詩の功徳で危い生命を取り止めたエルプル Erpr や、非常に數奇な生活を送つたエギル・スカラグリムソン Eegil Skallagrimsson などといふ人達もあり、エピソードにとんでゐますが、只今は省いて他の機會にゆづることに致します。スカルドの盛時は、ハラルド美髮王の時代で、王自らも優秀なスカルド Harald Harfagr でありました。
       九、散文時代
 スカルドに次いだサァガ Saga は散文の物語で、これはイスランドの美しい産物であります。軍談、講談のやうに歴史の事實を巧みな話術で話したのが今日に殘つてゐるわけであります。
 イスランドでは今日でも、宴會や、集會の席で、この講釋を餘興として聞く風習が昔のまゝに殘つてをります。
       十、傳統の精神
 これで甚だ概略ながら、古代のイスランド、ノルウェイ文學のお話を終りました。で、この古代文學が現代のスカンヂナヴィア文學とは如何なる關係をもつてゐるかと云へば、勿論、形式の上からは何んにもありません。けれどもその剛健不屈の古い傳統の精神、ローマンスの夢にあこがれる傳統の精神は、ちやんと殘つてゐます。イプセンの如き、ストリンドベーリの如き、いづれも自國の古い傳統に深い愛着をもち、その精華を發揮しましたし、ビョルンソンの如きは、スカルド蒐集の功によつてノーベル賞を貰つたほどであります。
       十一、中世以後の文學
 以上お話致しましたイスランド・ノルウェイ文學の榮えた後、イスランドは衰微しましたのが、十六世紀の半ばからやうやく復活して、十八世紀になつて、やつとローマン主義の文學が再び興つて來ました。けれども、『エッダ』や『スカルド』や『サーガ』に比すべきほどの力はありません。最近、グンナァル・グンナルソン Gunnar Gunnarsson といふ作家が國境を越えて名聲をはせてゐますが、これはデンマルク語を用ひてをりますから、或はデンマルク作家にかぞへて然るべきかも知れません。
 要するに古代イスランドの文學を受けついだのは、イスランド自身よりもデンマルク、ノルウェイ、スウェデンの三國でありました。然し宗教改革に至るまでのスカンヂナヴィアの中世文學は大體に於て隆盛ではなかつたといふことが出來ませう。スカルドやサーガの盛時を過ぎると、ラテンやフランスの古典の飜譯時代が來ました。キリスト教の普及に伴つて渡來したラテン語が尊重されて、學問は僧侶の手に歸し、文學もまた僧侶や貴族の支配するところとなりました。しかし、一方には國語の統一といふことが行はれ、國語で著作された文學も僅かながら出るやうになりました。この國語を整理改造して、文學用語にまで高めた功績はスウェデンではオーヴラス・ペトリス、デンマルクではクリスチャン・ペテルセンであります。
       十二、用語の問題
 私はここで、ちよつと、スカンヂナヴィア文學の用語について、おことわりして置かなければなりません。前に、スカンヂナヴィア文學が、基礎として立つ言葉は同じであるやうに申しましたが、これは大體のことで、元より同一國語を使用してをるのではありません。然しデンマルクとノルウェイとは同じ言葉を、違つた發音と、違つたアクセントで話し、幾分違つた綴方や、表現や、單語で文章を書いてをります。これは元ノルウェイが政治的にも、文化的にもデンマルクの支配を受け、その爲に、都會ではデンマルク語が通用して、古來のノルウェイ語は只方言として農民の間に殘つてゐたが故であります。このノルウェイ化したデンマルク語をノルウェイ人はリクスモール Riksmaal 國の言葉、または公用語といひ、これに對して、古代ノルウェイ語や、その面影をとめてゐる、ノルウェイ農民の言葉を整理再建した新ノルウェイ語、ニューノルスク Nynorsk をランスモール Landsmaal とよび、國粹を主張する人々はこれを以て、一公用語を排斥せんとしてをります。そしてもう久しいながら、この新ノルウェイ語で堂々たる大作家の作が幾つも出て、その勢力も段々加はつてをりますが、在來は勿論、今日でも Riksmaal の作家が、イプセン、ビョルンソンを初め、八分通りを占めてをりますから、デンマルクとノルウェイとは同じ國語の文學をもつてゐると言つても誤りではありません。しかも、デンマルク、ノルウェイ語と新ノルウェイ語との差は極めて僅かであります。まだスウェデン文學は、その國語たるスウェデン語で書かれてゐますが、瑞典語と他の二國語との相違は殆んどいくらもないといつてよろしいので、まづ東京語と、名古屋語と、大阪語とのちがひくらゐと言へば言へませう。ですから、私がスカンヂナヴィア文學は同じ語を基礎としてゐると申しても、ごく大まかな意味で、ゆるされると思ひます。
 そこで、宗教政革が來て、國語の尊重、國語文學の隆盛となり、遂にデンマルク、ノルウェイ文學に巨人ルゥドヴィク・ホルベルの[#「ホルベルの」は底本では「ポルベルの」]出現を見るに至り、スカンヂナヴィア文學に大きな光明をなげることになりました。
       十三、諷刺劇の盛時
 ホルベル Johan Ludvig Holberg は一六八四年、ノルウェイのベルゲンで生まれ、青年時代にデンマルクの首府ケェプペンパヴンに移り住み、一五七五年[#「一五七五年」はママ]に亡くなりました。歴史、地理、科學、法律、哲學、言語學など、あらゆる方面に精通してゐましたが、それよりも喜劇作家として、非常な名聲をはせ、スカンヂナヴィアのモリエールといふ名を受けました。當時の社會の裏面をありのまゝにさらけ出して、鋭い諷刺をほしいまゝにしました。スウィフトの『ガリバー巡島記』にヒントを得たやうな『ニェルス・クリームの地下旅行』Niels Klims Underjodiska Reis といふ物語の如きは、餘りにも眞に迫つて、偶然事實と符合したので、これは自分のことを惡口したものだと、譏誹の訴へを起したものすらありました。
 ホルベルの劇は北ドイツでも盛んに演じられました。またホルベルが、一七二三年に、その第一作を出すまでは、デンマルク、ノルウェイも劇といふものは、ほんの僅かより知られて
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