イプセンの日本語譯
宮原晃一郎
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感想といふところであるから、正確な材料によるものではないし、その上、そんな材料を集めたりすることに餘り興味を持たない私であるから、此處では、只永い年月、イプセンの日本語譯に接した折々に、感じたことを、思ひ出すまゝに書付けて見よう。
イプセン最初の紹介者は故坪内逍遙博士であつたといふが、私は知らない。私がイプセンの名を知つたのは、明治三十三年に發表せられた高安月郊譯『イプセン社會劇』からである。が、然し、内容はどんなであつたか、讀んでみなかつたから分らない。『人形の家』と『人民の敵』とが載つてゐたといふ。
イプセン最初の上演は明治四十一年の初め自由劇場でやつた『ボルクマン』であるさうな。その『ボルクマン』の臺本は森鴎外の譯で、今も私の手元にある。隨分得手勝手な譯で、本當に鴎外がやつたものかどうかを、疑はせるほどの惡譯だ。泰豐吉君が明治四十三年の『文章世界』で、その誤譯指摘をやつたといふが、誤譯といふよりも、その出鱈目なのには腹が立つ。
イプセンの日本譯が最も多く出たのは、明治の末から、大正の初め頃にかけてであつた。千葉掬香がイプセンの所謂散文劇の五六篇を譯して警醒社から出し、それからやがて、森鴎外、島村抱月、中村吉藏、楠山正雄、秋田雨雀など次々に問題劇を譯した。
最も多くの人により譯されたのは『人形の家』であらう。獨和對譯といふやうなものまでも加へると、殆んど七八種に上りはせぬかと思ふ。
『ヘッダ・ガーブレル』『幽靈』『海の夫人』『小さなイヨルフ』『棟梁ソルネス』『ロスメルスホルム』『野鴨』『ヨン・ガブリエル・ボルクマン』『我等死者の目醒むるとき』『人民の敵』など多きは四五種ぐらゐ、少くとも二種は飜譯があらう。『社會の柱』もたしか千葉掬香の譯があつたと思ふ。『人民の敵』には太田海軍大佐の譯があるのは妙である。しかも此の人、時の海軍政策を攻撃して失職し、その鬱憤がとんで此の譯が成つたのだといふから、一層妙である。出來榮えは知らず。散文劇はみな譯されてゐると思ふが、『青年結社』だけがどうか。見た覺えがないやうな氣もするが確かでない。韻文劇では『ブラン』は中村吉藏の譯が古くから有り、『ペール・ギュント』は楠山正雄の譯がある。それから『インゲル夫人』は永田衡吉譯が改造文庫に加はつてゐる。
イプセンの日本語譯を斯う上げてくると、立派に一つの大きな表が出來る。今一々それを敍説してゐるひまがないから、省略するとして、その出來榮えについて、概觀してみよう。と、いつても、私が手にとつて讀んだのは、僅少であるから、さう正確に言ふことは出來ない。然し、何よりもいけないことは、イプセンの日本譯のテキストが一つもノルウェイの原文を用ひたものでないことだ。せいぜいのところで、シュレンテルの獨逸譯によつたに過ぎない。他はレグラム版の獨譯か、乃至アーチャーの英譯である。
シュレンテル譯は、ドイツ語がうまかつたイプセンの目をとほした譯であるとか言つて、一番信用さるべきであらうが、それでも飜譯はやつぱり飜譯である。ドイツ語とノルウェイ語とは從兄弟同志ではあるにもせよ、比較して讀んでみると、感じがまるで違ふのである。その違つた感じを、更に、言語の構成がうんとかけ離れた日本語にうつすのであるから、どうしても遺憾の點が多からざるを得ない。
遺憾といへば、こんなやうな例がある。『人形の家』の初めの方に、ヘルメルがノーラの耳を引つ張つて冗談をいつてゐるところがある。その少しさきに、
Helmer, Nora, Nora, du est[#「est」に傍線][#「est」は底本では「set」] en Kvinde! Nej men alvorligt, Nora,
といふ文句がある。英獨譯では、
H. What a woman you are! But seriously, Nora (W. Archer)
H. Nora, Nora! Aber im Ernst, liebes Kind (W. Lange)
と、なつてゐる。問題は此のアンダーラインした est である。近代のノルウェイではこれは當然 er となるところで、現に他のところは皆 er となつてゐる。聞くところによると、est は非常に古い語であると。そしてみると、英語でなら直譯して Thou art a woman! とあるべきであらう。
ランゲのドイツ譯はこれが分らなかつたか、それとも譯することが出來ないのか、全然ぬかしてゐる。これは言語同斷で、問題にはならないが、シュレンテル譯はどうかといふと、生憎手元にない
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