泉鏡花作『外科室』
八面樓(宮崎湖処子)

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)素《すじ》

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(例)看護婦|刀《メス》を

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(例)寸鐵人を殺すの氣あり[#「寸鐵人を殺すの氣あり」に白丸傍点]

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(例)もう/\
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〔明治二八・七・二三『國民之友』二五七號〕

落莫たる文藝倶樂部に於て、吾人二人、新進作家を得る、曰く泉鏡花、曰く三宅青軒。
その第六篇掲ぐる所の鏡花の新作『外科室』、僅々十三頁に出でざる短篇と雖、然も其の短篇なるが故に、寸鐵人を殺すの氣あり[#「寸鐵人を殺すの氣あり」に白丸傍点]。
某伯爵の夫人、疾を得て某病院の外科室にあり、一醫學士の手術を經、半途に手術者の手を拉して遽かに自刃し、手術者も亦同日に自刃す。渠等は曾て小石川植物園に於て、偶然相見て[#「偶然相見て」に丸傍点]、双心相許したものと[#「双心相許したものと」に丸傍点]
是れ「外科室」の素《すじ》なり。是の如き深刻なる戀愛は泰西的にして東洋的にあらず[#「是の如き深刻なる戀愛は泰西的にして東洋的にあらず」に白丸傍点]。恐らくは翻案乎[#「恐らくは翻案乎」に白丸傍点]。
よし翻案なりとするも、文章簡錬敍事勁拔、之を先進作家の一二に見るに、多く讓る色あるを見ず。頗ぶる他が心状を描さんことを勉めたり。
渠は
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醫學士はと[#「醫學士はと」に傍点]、不圖見れば[#「不圖見れば」に傍点]、渠は露ほどの感情をも動かし居らざるものゝ如く[#「渠は露ほどの感情をも動かし居らざるものゝ如く」に傍点]、虚心に平然たる状露はれて[#「虚心に平然たる状露はれて」に傍点]、椅子に坐りたるは室内に唯渠のみなり[#「椅子に坐りたるは室内に唯渠のみなり」に傍点]。其太く落着きたる[#「其太く落着きたる」に傍点]、これを頼母しと謂はゞ謂へ[#「これを頼母しと謂はゞ謂へ」に傍点]、伯爵夫人の爾き容態を見たる予が眼よりは寧ろ心憎きばかりなりしなり[#「伯爵夫人の爾き容態を見たる予が眼よりは寧ろ心憎きばかりなりしなり」に傍点]。
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是れ高峰が情人の手術に就て勉《つと》めて冷淡を裝はふの状、
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『宜しい[#「宜しい」に二重丸傍点]』
と一言答へたる醫學士の聲は此時少しく震を帶びてぞ予が耳には達したる[#「と一言答へたる醫學士の聲は此時少しく震を帶びてぞ予が耳には達したる」に傍点]。其顏色は如何にしけむ俄に少しく變りたり[#「其顏色は如何にしけむ俄に少しく變りたり」に白丸傍点]。
[#ここで字下げ終わり]
是れ渠手術を乞はれて心動き初めたるの状
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『看護婦[#「看護婦」に二重丸傍点]|刀《メス》を[#「を」に二重丸傍点]』
[#ここで字下げ終わり]
是れ夫人が藥を服するを拒み、斷乎として死を决したるを見て[#「斷乎として死を决したるを見て」に白丸傍点]、意を决して坐を起つ時の辭[#「意を决して坐を起つ時の辭」に白丸傍点]
凡て筆を有意無意の間に着く[#「凡て筆を有意無意の間に着く」に丸傍点]、是れ最も凡手の難しとする所[#「是れ最も凡手の難しとする所」に丸傍点]、伯爵夫人の心状に至つては、
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『夫人唯今お藥を差ます[#「差ます」に「〔ママ〕」の注記]、何《ど》うぞ其をお聞き遊ばして、いろはでも、數字でも、お算へ遊ばします樣に』。
伯爵夫人は答なし[#「伯爵夫人は答なし」に白丸傍点]。
『お聞濟でございませうか。』
『あゝ[#「あゝ」に白丸傍点]』
『それでは宜しうございますね。』
『何かい[#「何かい」に二重丸傍点]、魔醉劑をかい[#「魔醉劑をかい」に二重丸傍点]。』
『いや[#「いや」に白丸傍点]、よさうよ[#「よさうよ」に白丸傍点]』
『それでは夫人、御療治が出來ません。』
『はあ[#「はあ」に白丸傍点]、出來なくツても可よ[#「出來なくツても可よ」に二重丸傍点]。』
『奧、そんな無理を謂つては不可ません。出來なくツても可といふことがあるものか。我儘を謂つてはなりません。』
『はい。』
『それでは御得心でございますか。』
腰元は其間に周旋せり。夫人は重げなる頭を掉りぬ。
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是れ夫人が魔醉藥を拒むで服せざる所[#「是れ夫人が魔醉藥を拒むで服せざる所」に傍点]、其の决心の態[#「其の决心の態」に傍点]、窘窮の状[#「窘窮の状」に傍点]、傍にあつて見るが如し[#「傍にあつて見るが如し」に傍点]。
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『そんなに強ひるなら仕方がない[#「そんなに強ひるなら仕方がない」に丸傍点]。私はね心に一つ祕密がある[#「私はね心に一つ祕密がある」に丸傍点]。魔醉劑は譫言を謂ふと申から[#「魔醉劑は譫言を謂ふと申から」に丸傍点]、それが恐くつてなりません[#「それが恐くつてなりません」に丸傍点]。何卒もう[#「何卒もう」に丸傍点]、眠らずにお療治が出來ないやうなら[#「眠らずにお療治が出來ないやうなら」に丸傍点]、もう/\[#「もう/\」に丸傍点]、快ならんでも可い[#「快ならんでも可い」に丸傍点]、よして下さい[#「よして下さい」に丸傍点]。』
『刀を取る先生は高峰樣だらうね[#「刀を取る先生は高峰樣だらうね」に二重丸傍点]』
『何うしても肯《き》きませんか。それぢや[#「それぢや」に丸傍点]全快《なほ》つても死でしまひます[#「つても死でしまひます」に丸傍点]。可《いゝ》から此儘で手術をなさいと申すのに[#「から此儘で手術をなさいと申すのに」に丸傍点]』
『さ、殺されても痛かあない。ちつとも動きやしないから、大丈夫だよ。切つても可[#「切つても可」に二重丸傍点]』
[#ここで字下げ終わり]
祕密[#「祕密」に丸傍点]、高峰樣[#「高峰樣」に丸傍点]、殺死[#「殺死」に丸傍点]、斬[#「斬」に丸傍点]、夫人の心状、之を掌に指すが如し[#「之を掌に指すが如し」に白丸傍点]『切つても[#「切つても」に白丸傍点]可[#「可」に二重丸傍点]』一語傍人を悚殺す[#「一語傍人を悚殺す」に丸傍点]。
遂に最後の惨局に到る、
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『痛みますか。』
『否、貴下だから、貴下だから。』
恁言懸けて伯爵夫人は、がつくりと仰向きつゝ、凄冷極り無き最後の眼に、國手をぐつと瞻《まも》りて、
『でも[#「でも」に丸傍点]、貴下は[#「貴下は」に丸傍点]、貴下は[#「貴下は」に丸傍点]、私を知りますまい[#「私を知りますまい」に丸傍点]!』
謂ふ時晩く、高峰が手にせる刀に片手を添へて、乳の下深く掻切りぬ。
醫學士は眞蒼になりて戰きつゝ、
『忘れません[#「忘れません」に丸傍点]。』
其聲、其呼吸、其姿、其聲、其呼吸、其姿。伯爵夫人は嬉しげに、いとあどけなき微笑を含みて、高峰の手より手をはなし、ばつたり、枕に伏すとぞ見えし、唇の色變りたり。
其時の二人が状、恰も二人の身邊には、天なく、地なく、社會なく、全く人なきが如くなりし。
[#ここで字下げ終わり]
是に到るまで讀者をして手卷を離す能はざらしむ[#「是に到るまで讀者をして手卷を離す能はざらしむ」に傍点]、
渠が外科室は成功せるもの[#「渠が外科室は成功せるもの」に白丸傍点]。
渠は又浪子の諧謔を能くす。
渠は又美の力を識認す、渠は伯爵夫人の美の力を、浪子の口を藉つて語らしめて曰く、
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『私もさ今まではかう[#「私もさ今まではかう」に白丸傍点]、ちよいとした女を見ると[#「ちよいとした女を見ると」に白丸傍点]、つひそのなんだ[#「つひそのなんだ」に白丸傍点]。一所に歩く貴公にも[#「一所に歩く貴公にも」に白丸傍点]、隨分迷惑を懸けたつけが[#「隨分迷惑を懸けたつけが」に白丸傍点]、今のを見てからもう/\胸がすつきりした[#「今のを見てからもう/\胸がすつきりした」に白丸傍点]。何んだかせい/\とする[#「何んだかせい/\とする」に白丸傍点]、以來女はふつゝりだ[#「以來女はふつゝりだ」に白丸傍点]。』
『でも[#「でも」に白丸傍点]、あなたやあ[#「あなたやあ」に白丸傍点]、と來たら何うする[#「と來たら何うする」に白丸傍点]。』
『正直な處[#「正直な處」に白丸傍点]、私は遁げるよ[#「私は遁げるよ」に白丸傍点]。』
[#ここで字下げ終わり]
美に對すれば俗念を絶つ[#「美に對すれば俗念を絶つ」に丸傍点]、鏡花は其消息を解するものか[#「鏡花は其消息を解するものか」に丸傍点]、吾人をして其の欠點を指摘せしめば、豈に指摘すべき處を知らざらん哉。
然れども此落寞たる文界に偶々新進作家の出つるに當りて[#「然れども此落寞たる文界に偶々新進作家の出つるに當りて」に傍点]、餘り多くの注文を持ちこむで其鋭氣を沮むは[#「餘り多くの注文を持ちこむで其鋭氣を沮むは」に傍点]、决して之を歡迎するの道にあらず[#「决して之を歡迎するの道にあらず」に傍点]。
然れども渠をして小成に安んぜしむるは吾人の本意にあらず、修養蘊蓄徐ろに後來の大成を期せんこと屬望に堪へず。



底本:「鏡花全集 卷二 月報2」岩波書店
   1942(昭和17)年9月30日第1刷発行
   1973(昭和48)年12月3日第2刷発行
初出:「國民之友」
   1895(明治28)年7月23日
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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