パシ火の子のハシる阿園が棺の火は、さながら地獄の無尽焔とも見えたり、目を瞑《と》じて静かに考うれば、これまでの無量の罪業ことに阿園の忌中五十日間の心術と所業と、一層明白に浮び来たり、一七日の法事を営み了《おわ》り墓に詣りて香花《こうげ》を手向《たむ》けたること、勇蔵が遺物と逸事をもって阿園の喜びに入りしこと、再度徳利と菜籠を提げて阿園を訪いたること、ついに阿園と寝たること、歴々としてなお閻王《えんおう》の法廷に牽《ひ》かれて照魔鏡の前に立たせられたるに異ならず、しかして今しも吹くる風、怪しくも墓の煙を彼が身辺に吹きよせたり、
 やがて影薄き新月山の端より窺い出づれば、今まで隠れたる野辺の景色は、たちまち妖魔《ようま》怪物のごとく飛び出でて、彼を囲めり、今は驚く気力も消え、重傷を負いたる人のごとく重き歩みを曳《ひ》きずりつつ、交路《つじ》に立てる石仏の前を横ぎり、秋草茂れる塚を過ぎ、パラパラ墓と称する墓場を経《へ》、雨夜に隠火の出づると言う森と、人魂の落ちこみしと伝うる林を右左にうけて通りこし、かの唐碓の渓《たに》の下流なる曲淵《まがりぶち》の堤に出でたり、
 両岸の楊柳は風に揺られ、疎《まば》らに垂《た》れたる枝さらさらと靡《なび》き、幽霊の髪の毛のごとく佐太郎が頭に触れて肩を撫《な》でり、げにこの曲淵には去年の秋この村に嫁ぎたる阿豊《おとよ》と言える女房、姑《しゅうとめ》の虐遇に堪えで身を投げたるところにして、その一頃の波脈々としてサワ立てるは、今も亡者の怨魂がその水底をカキ回して寒たく写れる眉月を砕くに似たり、彼は淵に臨んで嘆ぜり、「女に誤りし身の果ては死ぬるも女の跡を追わねばならぬか、古門村の住人山田佐太郎生年二十三歳アアこれまでの娑婆《しゃば》は夢か」と、
 たちまち怪しき声するとともに、三日月は山を越え、跡には闇と娑婆のみ残れり、
 不思議にも彼が死骸はいずこにも浮ばざりき、しかれども彼は再びその家に還らざりしかば、また一場の風評は伝わりぬ、あるいは曰《いわ》く、彼は人知れぬ谿《たに》に縊り、その死骸はなおそこにあるべしと、あるいは曰く彼はいずれの淵ことに曲淵に身を投げたるも、罪業深きゆえにその身浮ばざるものならんと、あるいは曰く阿園の葬式の夜五十金を懐きて遁《のが》れしと、かくて彼は到底死したることと定まりしも、彼は死後生より重き幾倍の苦痛――冥土にてその友と寡婦に逢うの苦痛、その友の信用を偸《ぬす》みし罪、その妻を親切をもって謀《はか》りし罪その他一切の悪業に報わるるの苦痛あるを知りて死にしや否の一事はなお往々にして争われたりき、
 かくて古門村には二軒の空屋を残したり、一軒は川辺にあり一軒は山手に立てり、前者の門札は尋常にその墓に移りてあるも、後者の名はその石を有せざりき、逝《ゆ》くものは月日、三年立ち五年過ぎ、村人の代も変りて去年新たに隠居して本願寺に詣でし父老の一人、帰村の初め、歓迎の宴席において語れるその紀行のうちに左の一節ありしなり、
「われらが西京より近江《おうみ》に出でて有名なる三井寺に詣ずる途中、今しも琵琶湖《びわこ》を漕《こ》ぎ出る舟に一個の気高き行脚僧《あんぎゃそう》を見き、われらが彼を認めし時は、舟すでに岸を離れてありき、われらが彼を熟視するごとく彼もしきりにわが一行を打ち守りき、ついに彼は舟子に舟を返さしめんとするさまなりしが、その語は櫓《ろ》の声波の音に紛らされ舟は返らずしてますます遠ざかり、互《かた》みの顔ようように隔たりつつ、ついに全く見えなくなりぬ、さてその法師の容貌《ようぼう》と風采《ふうさい》とは、さながら年とりし佐太郎そのままにて、不思議の再会最も懐かしく思いたるに、他に佐太郎にあらずと言うものもあり、さらばとて、帰り路に再びそこを過ぎたれど人にも舟にも遇わざりし」と、



底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社
   1970(昭和45)年7月5日初版発行
   1971(昭和46)年4月30日再版
初出:「国民之友」
   1891(明治24)年8月
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年4月5日作成
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