るるも面白からねば誰にも明かさず、ただ暇乞いに兄貴に告げたるのみ」「さらばわれも一しょに往くべし」
 勇蔵が気質を知れる女房は痛くも驚き、佐太郎もまたはなはだ惑えり、「そは兄貴真実に」「無論のことなり」「そははなはだよろしからず、卿《おんみ》は姐子《あねご》をよびて間もなければ、卿は今姐子と離るべからず、よし卿に恨みなしとするも姐子の心中も思いやられよ」
 それもさなりと、一たびは思いたれども、すでに一日一金の甘言に酔い、しかして臆病者の佐太郎の決心に恥かしめられたる彼は、平生の気質のごとく焦《はや》るままに決心したり、「和主の言も無理ならねど、ともかくもわれも往くべし、せっかく急ぐべけれども支度《したく》するまで一両日待ちくれよ」
 女房は青くなれり、佐太郎は涙ぐみ、「過《あやま》てり過てり、告げずして往くべかりしに」と、返す返すも悔みたれど、早や転《まろ》び出《い》でたる玉いかんともするに由なければ、「サラバひそかに用意してよ人に知れては面倒なれば」と、再びその家に帰りて寝ぬ、
 翌日阿園は村を駈《か》け廻り、夫の心を回《めぐ》らすべく家ごとに頼みければ大事は端なくも村に洩《も》れぬ、媒妁人《ばいしゃくにん》は第一に訪ずれて勇蔵が無情を鳴らし、父老は交々《こもごも》来たりて飛んで火に入る不了簡《ふりょうけん》を責め、同年者もとかくに止め、別して彼が幼き時膝にあげたる一人の老媼《おうな》、阿園とともに昼ごろまで泣きて止めたれど動く様子少しもなく、いよいよ明朝の出立と定まりぬ、阿園も今は涙を拭《ふ》き、足袋《たび》行縢を取り出し、洗濯衣、古肌着など取り出でて、綻《ほころ》びを縫い破れを綴《つづ》り、かいがいしく立ち働く、その間に村人は二人の首途《かどで》を送らんと、濁酒鶏肉の用意に急ぎぬ、
 その夜夫婦は最も温かなる寝床をとり、最も悲しき睦言《むつごと》を語れり、一生の悲哀と快楽を短か夜の尽しもあえず鶏は鳴きぬ、佐太郎は二度の旅衣を着て未明より誘い来たれり、間もなく父老|朋友《ほうゆう》を初め、老媼女房阿園が友皆訪い集《つど》い、ここより別るるものは勇蔵が前に来て慇懃《いんぎん》にその無事と好運とを祈り、中には涙に溢《あふ》れて、再び逢《あ》い見ぬもののごとく悲しき別れを宣《の》ぶるもありき、
 一行は今勇蔵が家を出でたり、春の日のいとも遅々たるさまにはあれど、早く
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