空屋
宮崎湖処子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)麑島謀反《かごしまむほん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)正月|阿園《おその》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]秧《そうおう》すみて
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上
麑島謀反《かごしまむほん》の急報は巻き来たる狂瀾《きょうらん》のごとく九州の極より極に打てり、物騒なる風説、一たびは熊本城落ちんとするの噂《うわさ》となり、二たびは到るところの不平士族賊軍に呼応して、天下再び乱れんとするの杞憂《きゆう》となり、ついには朝廷御危しとの恐怖となり、世間はみずから想像してみずから驚愕《きょうがく》せり、ただ生活に窮せる士族、病人に棄てられたる医者、信用なき商人、市井の無頼らが命の価を得んとて戦場に赴《おもむ》くあるのみ、他は皆南方の風にも震えり、しかれども熊本城ははるかに雲のあなたにて、ここは山川四十里隔たる離落、何方《いずかた》の空もいと穏やかにぞ見えたる、
いと長き旅に疲れし春の日が、その薄き光線を曳《ひ》きつつ西方の峰を越えしより早や一時間余も過ぎぬ、遠寺に打ちたる入相《いりあい》の鐘の音《ね》も今は絶えて久しくなりぬ、夕《ゆうべ》の雲は峰より峰をつらね、夜の影もトップリと圃《はたけ》に布《し》きぬ、麓《ふもと》の霞《かすみ》は幾処の村落を鎖《とざ》しつ、古門《こも》村もただチラチラと散る火影によりてその端の人家を顕《あら》わすのみ、いかに静かなる鄙《ひな》の景色よ、いかにのどかなる野辺の夕暮よ、ここに音するものとてはただ一条の水夜とも知らで流るるあるのみ、それすら世界の休息を歌うもののごとく、スヤスヤと眠りを誘いぬ、そのやや上流に架けたる独木橋《まるきばし》のあたり、ウド闇《ぐら》き柳の蔭《かげ》に一軒の小屋あり、主は牧勇蔵と言う小農夫、この正月|阿園《おその》と呼べる隣村の少女を娶《めと》りて愛の夢に世を過ぎつつ、この夕もまた黄昏《たそがれ》より戸を締めて炉の火影のうちに夫婦向きあい楽しき夕餉《ゆうげ》を取りおれり、やがて食事の了《おわ》るころ、戸の外に人の声あり「兄貴はうちにおらるるや」と
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