もを着せ、またその時代固有の道徳を吹き込んでも、一向さしつかえはないのだ。この本の中では、神話はその古典的な外貌の多くを失ったかも知れない(いずれにしても、著者はそれをつとめて保存しようともしなかったのであるが)、そして、おそらく、粗野《ゴシック》な、或《あるい》は浪漫的《ロマンチック》なものになってしまったかも知れない。
この愉快な仕事をするに当って――というのは、それはほんとに夏向の仕事だったし、また、著者が今までにくわだてた文学的な仕事のうちで、最もこころよいものの一つだったから――著者は、子供達によく分らせるために、常に調子を下げて書かなくてはならないとも考えなかった。話の性質上、自然にそうなって行く時とか、また著者の気持が話につれて、われ知らず高揚して行くような時には、大抵の場合、話の調子が高くなるがままに放任した。子供達は、想像の上でも感情の上でも、それがどんなに深く、或は高いものであっても、同時に単純でさえあれば、おそろしく分りのいいものだ。子供達を面喰《めんくら》わせるものは、ただあまりにひねくりまわした、こみ入ったものだけなのである。
[#改丁]
タングルウッドの玄関
――「ゴーゴンの首」の話の前に――
天気のいい、秋の或《あ》る朝のこと、タングルウッドという田舎のお屋敷の玄関先に、背《せ》の高い青年を取りかこんで、愉快な子供達の一群が集まっていた。彼等は木の実拾いに出かけることになっていたので、丘の斜面から霧が晴れ上がって、お日様が野原や牧場の上一杯に、それから、色とりどりに紅葉した森の奥まで、小春日のあたたかさをふりまいてくれるのを、今か今かと待っているのであった。この美しい、気持のいい世界の様子を更に引立てて見せる上天気のうちでも、今日はまた飛切りの上天気になりそうだった。しかし、今のところ、霧はまだ谷間の長さ一杯、幅一杯に立ちこめて、お屋敷はそれに浮くように、なだらかに盛《も》り上がった丘の上に建っているのであった。
この白い霧は、その家から百ヤードとも離れないあたりまで迫っていた。それから先はすべて霧にかくれて、ただ見える物とては、あちらこちらに頭を突き出して、霧のおもてと一しょに、朝の陽に美しく照らし出されている赤や黄色の樹の天辺《てっぺん》だけだった。南の方、四五マイルはなれて、モニュメント山のいただ
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