かつた。善光寺の御堂も淺草の觀音樣程なつかしくなかつた。御燈明をあげ、お階段廻りをして外に出ると、山の影が町に迫つて既に暗かつた。
 此處に一泊するのはつまらないといふので、姨捨《をばすて》の月を見る事にした。
 驛の待合室で見た光景も忘れ難いものであつた。手に手に提燈を持つた巡査、フロツク・コオトや、紋附の役人や土地の有志に取卷れてゐる、群を拔いた大男と、川島武男のやうに氣取つた士官と、喪服の婦人を見た。大男は知事で馬鹿馬鹿しく尊大な態度だつた。喪服の婦人の良人で、海軍士官の兄に當る人が此地で死んで、遺骨が見送られる場面だつた。それ丈の事ならば長く記憶に殘る筈は無いのだが、その婦人が勝れて美しいといふ方では無かつたけれど四圍と調和しない程|粹《いき》なからだつきで、泣いた頬におくれ毛のへばりついたまゝ、冷々として見送の人を見てゐたのである。そのめつきは、ながしめといつてもよく、きつく結んだ口邊には冷笑に似た影さへあつた。藝者の風情を持つその婦人は、喜多村緑郎が手がける泉鏡花先生作中の人物のやうに思はれた。私と相棒とは、後々迄此の婦人にさまざまの色彩をつけ足して噂した。
 屋代《やしろ》で汽車を下りて車に乘つた。折柄の名月で、爽かな音を立てゝ流れる千曲川は銀色に光つてゐた。長い橋を渡る時欄干に腰かけてゐる二人の女を見た。その一人が此の邊には珍しい都の風情だつた。白いうなじと廣い帶を車上から見て過ぎたが、前の車に乘つてゐる相棒も振返つて見てゐた。
 車やに連れこまれたのは汚《きた》ない旅人宿だつた。麥酒《ビール》と林檎を持つて直に姨捨に登つた。稻が延びてゐるので田毎の月の趣は無かつたが、蟲の音が滿山をこめて幼稚な詩情を誘つた。
 宿に歸ると、あがりがまちに先刻《さつき》の車やの一人が酒を飮んでゐた。吾々を見ると、これから郡の大雲寺といふのに案内するといひ出した。
「わしやあ錢ほしいぢやあねえでごわす。道歩くのが道樂でごわすから。郡の大雲寺の石垣はまづ大きいものでごわすわ。わしや知んねえが廣い東京にもあれ丈のものはごわすまい。春はまづ櫻の名所でごわすわ。わしやあ錢ほしいぢやあねえでごわす。」
 と呂律の廻らないのがしきりに御伴《おとも》するといふ。こんな汚ない宿屋にゐても面白くないから、勸めるまゝに從つた。車やは千鳥足で先に立つたが、ふらふら搖れて行く月下の影は狐のやうだつた。
 ある家の洋燈《ラムプ》の下に五六人車座になつて賽ころを振つてゐるのを見た。車やは其処で烟草を買つた。
「やい、誰だ。此処迄來て寄らねえつつうことがあるか。やい、面あ出しやあがれ。」
 と外に待つてゐる吾々を見て怒島つた男があつた。頬髯の凄い男だつた。
 大雪寺といふのまで三十丁もあつた。境内には大きい池と、それを取卷く櫻があつた。花見の時には此の池に舟を浮かべて遊ぶ。
「そん時はお女郎がわしらの車に乘つてくれるでごわす。」
 と車やはひどく光榮がつてゐた。池と櫻とは月光を浴びて私の記憶にあるが、どんな寺だつたか、いかなる由緒があるのか一切忘れてしまつた。醉拂ひの車やは、それからお女郎のゐる所へ案内して呉《くれ》ると云つたが、やうやく斷つた。宿に歸つて二階座敷に寢たが、夜具の惡臭はまだしもとして、忽ち全身に蚤が這ひ始めた。四疋五疋つかまへてつぶしてゐるうちに、手足腹胸首背中、全身はれあがつてしまつた。一睡も出來ないで曉の光を見た。
 朝の飯は臭くて咽喉を通らなかつた。吾々をあてこんで同じ宿に泊つた車やが、もう一人つれて來て驛迄乘せて行つた。
 吾々は上田《うへだ》へ寄つて、その日輕井澤へ行つた。停車場前の油屋といふ宿屋にとまつた。時々雲は去來したが、空は眞青に晴れてゐたので、その晩十時から登山の爲めに出立し、翌朝下山したら直ぐに汽車に乘つて、途中妙義山に登らうと日程を定めた。縁側に出て見ると、淺間は鼻の先にあつた。湯に入《はい》つて長々と寢そべつてゐると、不意に障子が暗くなつた。あけてみると、山の方はすつかり霧にかくれ、風は水のほとばしるやうに草を分けて吹いた。忽ち大粒の雨が縁側を打つて横ざまにしぶいて來た。
 翌日も雨は止まなかつた。隣室の客が、此の雨は東から來たから五六日は晴れまいと話してゐるのを聞いて、急に思ひ切つて歸る事にした。ふりかへつても振返つても、淺間は姿を見せなかつた。
 翌年、恰度同じ頃に、私は一人で東京を立つた。前の年の相棒も同行の約束だつたが、俄に都合が惡くなつて斷つて來た。しかし、今度は淺間山麓に一人の友達が待つてゐた。
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小諸《こもろ》なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
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 と島崎藤村先生のうたつた城址を訪ひ、又先生や三宅克己丸山晩霞などといふ人が教鞭を執つたといふ小諸義塾も見た。友達
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