笑った。私は強い味方を持てる気強さと滝夜叉のように凄《すご》いほど美しいわがお鶴をたまらなく嬉しく懐《なつ》かしく思ったのであったが待ち設けた人に逢われぬ本意なさにまだ崩《くず》れない集まりを抜けて帰った。
 暗闇の多い坂上の屋敷町は、私をして若い女や子供が一人で夜歩きするとどこからか出て来て生き血を吸うという野衾《のぶすま》の話を想い起させた。その話をして聞かせた乳母の里でも村一番の美しい娘が人に逢いたいとて闇夜に家を抜け出して鎮守の森で待っているうちに野衾に血を吸われて冷めたくなっていたそうだ。氷を踏むような自分の足音が冷え初めた夜の町に冴《さ》え渡るのを心細く聞くにつけ野衾が今にも出やしないかとビクビクしながら、一人で夜歩きをしたことをつくづく悔いたのであった。覆《おお》いかかった葉柳に蒼澄んだ瓦斯燈《ガスとう》がうすぼんやりと照しているわが家の黒門は、固《かた》くしまって扉に打った鉄鋲《てつびょう》が魔物のように睨《にら》んでいた。私は重い潜戸《くぐりど》をどうしてはいることが出来たのだったろう。明るい玄関の格子戸《こうしど》から家の内へ馳け込むと中の間《ま》から飛んで出て来た乳母はしっかりと私を抱き締めた。
「新様あなたはマアどこに今ごろまで遊んでいらっしゃったのです」
 あれほど言っておくのになぜ町へ出るのかと幾度か繰り返して言い聞かせた後、
「もう二度と町っ子なんかとお遊びになるんじゃありません乳母《ばあや》がお母様に叱られます」
 と私の涙を誘うように掻《か》き口説くので、いつも私が言うことをきかないと「もう乳母は里へ帰ってしまいます」と言うのが真実《ほんと》になりはしないかと思われて知らず知らずホロリとして来たが、
「新次や新次や」
 と奥で呼んでいらっしゃるお母様のお声の方に私は馳け出して行った。

 お屋敷の子と生まれた悲哀《かなしさ》はしみじみと刻まれた。
「卑しい町の子と遊ぶと、いつの間にか自分も卑しい者になってしまってお父様のような偉い人にはなれません。これからはお母様の言うことを聞いてお家でお遊びなさい。それでも町の子と遊びたいなら、町の子にしてしまいます」
 と言う母の誡《いまし》めを厳《おごそ》かに聞かされてから私はまた掟《おきて》の中に囚《とら》われていなければならなかった。しばらくは宅中《うちじゅう》に玩具箱をひっくり返して、数
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