は、兎角世間の惡賢い人間がして見せる氣障と厭味を離れて、眞面目に結婚生活の幸福を説いて止まなかつた。女性を輕侮し、結婚生活を羨しいと思つてゐない自分さへ、久保田君の純眞なる喜悦の前には、おひやらかすことさへ出來なかつた。これ程喜べるものならば自分も結婚し度いと思つたが、自分の如き疑深い卑屈な根性の者には、到底それは不可能の事であらう。結局自分は、久保田君の結婚そのものよりも、久保田君が眞心から幸福を感じてゐる心持の方を羨んだ。
或は遂に久保田君は「生活の改造」を爲《し》遂げたのかもしれない。さうしてほんたうに久保田君の偉さが、一時の浮薄に打勝つて光を現して來たのかもしれない。「世の中がよくなつて來た」のかもしれない。さういふ奇蹟の起る事を、自分は「末枯」の作者の爲めに祈つて止まないものである。(大正八年八月十八日)
[#地から1字上げ]――「三田文學」大正八年九月號
底本:「水上瀧太郎全集 九卷」岩波書店
1940(昭和15)年12月15日発行
入力:柳田節
校正:富田倫生
2005年1月27日作成
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