を通じて――或は久保田君の全作品を通じて描かれて居る人々と、その周圍の光景に外ならない。自分が前に、今日の文明に直接何の交渉も無い人々だと云つたのは、即ち彼等の生涯が枯野だからである。
此の枯野の生涯を送る人々を描く事に於て、久保田君は文壇に比類の無い作家だ。持つて生れた詩人的氣禀の爲めに、沒分曉《わからずや》の批評家は、徹頭徹尾現實には縁遠い、物語の作者だと思つてゐるが、斯くの如きは誤れる事甚しいもので、たまたま久保田君の選擇する社會の一斷面が、將來に連續する現在でなくて、過去に連續する現在だといふ事實から、甘いお伽噺の作者と間違へられ易いのである。
實際久保田君自身は寫實主義の作家を以て任じて居る。詩人と呼ばれる事を喜びながら、それには些か不服を唱へるが、寫實主義だといはれると、更に一層喜んで、己れを知る人の爲めに相好を崩すに違ひない。甚だ氣障《きざ》な申分ではあるが、久保田君の寫實主義を認めるのは、東京の人でなければ難かしいと思ふ。其の描く世界が、極めて特異の地方色を帶びて居るからで、少くとも山の手の東京の人と、下町の東京の人の區別を知るばかりでなく、同じ下町の人でも、日本橋
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