」である。
 世の中はどうにもならないものだと固く思ひきめてゐる久保田君は、總て大がかりな悲劇を冷笑してしまふ傾向を持つてゐる。人間の意志の力を些かも認めないから、深刻な悲劇は嘘としか考へられない。さうして此の傾向も亦、獨特の依怙地から極端に走つて、何でもかんでも大がかりなものは、一切嫌ひだといふところ迄行つてゐる。トルストイ、ドストエウスキイ、ゾラなどの長篇小説は、久保田君にとつては些かくすぐつたいに違ひ無い。日本の作家にしてみても、尾崎紅葉先生や夏目漱石先生のやうな、構への大きい作家の作品は、餘り顧みるところではない。寧ろ片々たる小篇に、屡々特異の味はひを見出す人である。言葉を換へて云へば、この世の中の家常茶飯に、極めて意味深い哀韻の詩を見出して、之を描き出す作家なのである。
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鈴むらさんのところへこのごろ扇朝が始終這入りこんでゐるといふ風説を聞いて、せん枝は心配した。何とかしなければいけないと思つた。――だが何とかしたいにも、一月あまりといふもの、鈴むらさんはまるでせん枝のところへ顏をみせなかつた。
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 これが「末枯」の冒頭である。目の惡いせん枝は、秋の日の障子の中に靜に坐つてゐる。扇朝といふ男は義理知らずだから、ちかづけてはいけないと心配してゐるのだ。義理と人情の世界に住む東京の人は、屡々かういふ種類の心配をする。久保田君にも勿論此の傾向がある。さうしてその心配が、時にとつては、――せん枝にも、久保田君にも――一種の道樂に等しい心慰《なぐさめ》である。心配のなりゆきを考へる時、希望に似た胸のときめきがあるに違ひ無い。しかし此の種の心配性は、決してその心配に拘泥して、進んで解決を求める事は無い。ぼんやりと、友だちの無い寂しさに浸りながら、あの人は如何したらうと思つてゐるばかりで、こつちから相手を探し出して心配してやる執着は無い。それは心配する事の重大と否とには拘らず、何事によらず、うるさく拘泥する事はしないのである。心の底の底には、矢張、心配したつてどうにもならないと、寂しく思ひきめてゐるのだ。
 何事にも動き易く、目的も無く浮動して、ふとした事にも身の振方を變へてしまふ心弱い人間を描いて、久保田君はその寂しい心の底の底迄徹してゐる。たとへば扇朝といふ落語家《はなしか》の半生の物語の如き、淡々とした敍事の中に、その
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