を文壇に見ても、本間氏の如き見當違ひの批評家さへ、大きな顏をしてゐられる我文壇の貧弱さは、いかに贔負目に見ても崇拜の對象にはなり兼るのである。
貴族趣味についても自分は「新嘉坡の一夜」の何處から推斷された非難なのか飮み込めない。あの作品の何處に貴族趣味が説いてあるか。しかし若し貴族趣味といふものが、平俗凡庸卑劣淺薄を憎み、よりよき人の世を憧憬する事を指すのならば、自分は確かに貴族趣味だ。「人類に對する親しい感情」を多分に持ち、且人類の醜惡なる事實の力強さに壓迫を感じて惱む自分は、どうかしてよりよき人の世の出現を希望すると同時に、醜惡なる人間の影を潛める事を熱望してゐる。小説の月評にさへ、流行の民衆がる機會を捉へんとする人間の心の「内部に透入して」、自分はその醜惡を憎むので、その人間の面つきのまづい爲めに嫌惡するのではない。
自分の貴族趣味は、頭腦の惡い人間よりもより多く無反省な人間を憎み、良心を所有しない人間を唾棄する。換言すれば、わけもわからない癖にわかつた顏をし、もつともらしい風をして出たらめを云ふ人間を嫌ふのである。さういふ人間の集團が存在する限り、人類の幸福は阻まれるからで
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