貝殼追放
向不見の強味
水上瀧太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)火照《ほて》る
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)隨分|堪《こた》へる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しやあ/\
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たださへ夏は氣短になり勝なのに全身麻醉をかけられて、外科手術をした後の不愉快な心持は、病院を出てから一週間にもなるのに、未だに執念深く殘つて居る。
甚だ汚ならしい話だが、疾患は痔瘻なので、病院へ通ふのに、乘物に腰掛けて搖られるのが苦痛で、何時も電車の釣革につかまつて立つて居るのであるから、芝の端から築地迄小一時間もかかる道中は、たとへ囘復期にありとはいへ、衰弱した身體には隨分|堪《こた》へるのである。病院で患部を洗はれ、火照《ほて》る程沁みる藥を忌々しく思ひながら、又同じ道を立ちづめの電車で家に歸ると、全く疲れ切つて何をする氣力もなくなつてしまふ。本を讀む事も、新聞を讀む事も大儀で、今でもクロロホルムのさめ切らないやうな氣持で仰臥《うつぷ》してゐるばかりで、苛立たしい心持を恥ぢながら、それを免れる事が出來ないのである。
ところへ兄が見舞に來てくれて、いろんな話の末に、歌舞伎座の「沈鐘」を見に行かうと思ふが身體《からだ》に故障が起らなければ一緒に行かないかと誘つてくれた。自分も「沈鐘」は見度いと思つてゐたので喜んで同意したが、その實、心の中ではこの芝居を兄には見せ度くないと思ふ心持が強かつた。
自分は世に所謂新しい芝居を好んで見度がる一人であるが、それを嚴格に批判的に見る事はあまりに殘酷な氣がして堪へられない。殊に日本の俳優が泰西の名戲曲を演じる場合の如きは、その原作に對する尊敬と、出演者の努力を買ふ同情と、時には原作の偉大さと所演の貧弱さの餘りに極端な對比が惹起する憐愍から、やうやく一人立ちしてヨチヨチ歩く赤坊を見る親の心持で、いたはりいたはり見てゐる態度を取るのである。恐らくこれは自分一人でなく、世の劇評家諸氏といへども、歌舞伎劇に對するやうに、容赦なくうまいまづいを論《あげつら》ふのでなく、割引に割引をして見るのに違ひない。近頃流行の感激したがる一派といへども、子供の習字を極上々とほめはやす手なのだらうと推察される。ところが吾々と違つて新しい戲曲の發達に特別の關係の無い人、換言すれば所謂文壇の人でない人には、下手な芝居は單純に下手な芝居で、遠慮會釋もなければ強ひておだてたりほめたりする心持も起らない。坪内士行、東儀鐵笛、上山草人、松井須磨子よりも、市村羽左衞門、尾上菊五郎、河合武雄、喜多村緑郎の方が一見して比べものにならない程うまいと思はれるのは當然である。此點に於て、新しい戲曲の上演に同情を持つ自分は、すぐれて感覺の鋭い、藝術に對する理解力の深い、且つ新しい芝居をさへ割引しないで見るに違ひない兄に對して、自分の掌中の物をかばふ心地から、自分自身も文藝の事に携はる身の、一種職業的恐怖ともいふべき不思議な感情を抱いたのである。
最近に外國から歸つて來た兄は、長い間海外に生活した者の誰もが感じるやうに、まだ以前の生れ故郷の生活にしつくりあてはまらない心持から、何かしら新しい刺戟に興味を見出し度がつてゐるらしかつた。彼地に居る間に芝居を見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るのを爲事にして居た事實と、曾て本で讀んだ「沈鐘」の面白さを、そのまま舞臺の上に期待して居るらしい樣子が自分をして一層不安を抱かせたのである。
如何《どう》かしてうまく演《や》つてくれればいい、新しい役者の新しい芝居も決して愚劣なものではないと思ひ知らせてくれればいいと、自分は他人事《ひとごと》でない氣で心配した。
その日は朝のうちに病院に行つて、診察の濟んだのは正午近かつた。病院の近所で認めた食事の終つたのが一時で、それから家に歸つて又出直す時間は十分あるけれども、電車に乘つて立ちづめの不愉快を考へると歸宅する氣はなくなつた。しかし四時開場の時間迄をどうして暮さうかと暫時《しばらく》考へ惱んだ末、先頃入院してゐた間に度々見舞に來てくれた知人の家に行つて、お茶でも頂戴しながら遠慮なく横倒しにならして貰ふ事に決めた。
主人は留守だつたが、心置きない間柄なので、勸められるままに上つて、不自由な身體を氣隨に横にさせて貰ひながら主婦と話し込んで居たが、後から他にお客が來たので、主婦はその日の新聞を自分の目の前に揃へてくれて、そのまま座敷の方に行つてしまつた。
「やまと」新聞に連載されて
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