ろが、日露戰爭時分の事だと思ふ。博文館から發行される「葉書文學」といふ雜誌に、岡田八千代夫人の談話筆記だつたと記憶するが、その愛讀書について述べてある中に、泉先生の作品殊に「笈摺草紙《おひずるざうし》」が激稱してあつた。それを見て自分は初めて先生に「笈摺草紙」といふ作品のある事を知り、今日迄のやうな不秩序な古本探しでは、まだまだ見落しが澤山あるに違ひ無いと思つた。
 其處で自分は上野の圖書館に通つて、あらゆる文藝雜誌を借覽して「泉鏡花先生著作目録」といふものを作つた。それを懷にして手近の三田通りから始めて、本郷神田の古本屋を閑さへあれば漁り歩いた。夜は縁日の夜店のかんてらの油煙にむせながら、蓙《むしろ》の上の古雜誌を端から端迄順々に探し求めた。
 冬の寒い夜の事であつた。神田の夜店を漁りに行つて、有斐閣の前あたりだつたと覺えてゐるが、蓙の上に積重ねてある雜誌の間に、手垢で汚れた「笈摺草紙」の出て居る「文藝倶樂部」を見出した。喜びに震へる手に取上げて、値段をきくと拾貮錢だといふ。當時「文藝倶樂部」の古本に對してそれは法外の値段だつた。けれども自分が久しく探し求めて居た「笈摺草紙」に對してはちつとも高いとも思はなかつた。
 その上自分は金錢について細かく云々する事を卑しむやうな教育を我家で受けて居たので、どんな物でも値切るのを恥ぢる習癖を持つて居た。直ぐに言ひ値で買はうとした。
 ところが丁度自分と同じやうに其處にしやがんで、先刻から古雜誌を引繰返して居た一人の男があつた。商家の若僧らしかつたが、古本屋のおやぢが自分にむかつて十二錢だと答へた時、
「十二錢? 馬鹿にしてやがら、こんな古雜誌。」
 と横合から如何にも人を馬鹿にするなといふ語氣で云つて、目深くかぶつた鳥打帽子の下に暗い顏をふり向けて同意を求める目付をした。自分は思はず知らず財布にかけた手を放した。
 勿論その若僧は彼自身も買手であるといふ共同の利益の爲に自《おのづか》ら義憤を發したのであらう。けれども自分に取つては彼の一言は手痛く胸に響いた。「笈摺草紙」の十二錢は自分の主觀的價格からみればおい夫《それ》と支拂つて差支へないけれども、客觀的價格からみれば成程人を馬鹿にした者に違ひない。見榮《みえ》坊の東京の人間の弱味が自分をして前後の分別も無くなさしてしまつた。人前で他人に馬鹿にされる事は何よりも我慢が出來ない。どうしても値切らなければ恥辱だと思つたのである。
 自分はそれを八錢に値切つたのか六錢に値切つたのか四錢に値切つたのか忘れてしまつたが、兎に角値切つたのである。いかにも古本は買馴れてゐるやうな顏付をしたのだつたらうと思ふ。
 茶色の釜形の帽子の中に目も鼻もかくれてゐて、色の褪めた毛糸の襟卷に顎を埋めながら身動きもしないで煙草を飮んでゐた古本屋のおやぢは、烟管をはたくのも不性つたらしい奴であつたが、
「まかりません。」
 と不機嫌な取付場の無い返事をして、又烟管をくはへた。
 未練らしく押問答をした後で、おやぢの傲岸な態度は一層自分の立場をやりきれなくしてしまつた。今更それを買ふ事は出來なくなつてしまつたが、此の一册を手に入れなければ永久に「笈摺草紙」は手に入らないやうに思はれた。それでも自分の見榮を張り度いけちな根性は、自分をしてさもそんなものは入《い》るものかといふやうな態度を執らせてしまつた。
 立上つて勢ひよく歩き出したが、どうしても思ひ切れなかつた。ふりかへつて見ると、おやぢは何處を風が吹くといつた風をして煙を吹いてゐるのであつた。
 癪に障つて堪らないので、往來の石つころを蹴飛ばした勢ひで、一町ばかり次の町筋の角迄來たが、右に行かうか左に行かうかと考へた時、どうしてももう一度後に引返して恥を忍んでも「笈摺草紙」を買はなければならないと思ふ心持が強く起つた。暫時《しばらく》躊躇した後で、自分は思ひ切つて後に引返した。
 古本屋のおやぢは依然として身動きもしないで煙草をふかして居たが、たつた五分か十分とはたたない間に「笈摺草紙」はもう賣れてしまつた。
 自分は涙の出る程なさけない心持で、古本屋のおやぢと先刻の若僧を憎んだ。なんだかしらないが、彼《あ》の若僧が故意にけちをつけて、自分の買はうとする心持を碎き、その後でまんまとせしめてしまつたやうに思はれて爲方が無かつた。けれどもそれは恐らくは自分のひがみであらう。あんな奴がそれ程に「笈摺草紙」に焦れてゐるとは想像出來ないから。
 未練らしく蓙の上の古雜誌を、もしやと思つて幾度も探してゐる自分を、古本屋のおやぢはさげすむやうに見た。
 自分は其後泉先生及び永井荷風先生の作品の出てゐる古雜誌は一切云ひ値で買ふ事にしたが、他日、「笈摺草紙」を手に入れてから十年以上もたつてゐる今日に到つて、未だ彼の神田の夜店の古本屋
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