貝殼追放
購書美談
水上瀧太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)救ふ可《べか》らざる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]――「三田文學」大正七年八月號
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いら/\
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吾々の時代の多過ぎる程多數の作家の中で、古典として尊重せらるべき作品を後世に殘す人が幾人あるかを想ふ度に、自分は自分自身をも含ませてなさけ無い心持になるのを禁じる事が出來無い。
十數年前、文藝上の新しい主義が海外から移入された頃、その主義宣傳の運動に携はつた者は、政黨政派の爭のやうに黨同伐異を事としたが、年月がたつて彌次馬に特有の興奮状態から覺醒した時、初めて彼等は自分達の値うちを意識し、或は意識させられた。或者は生れ故郷の土臭い田舍に歸り、或者は偉大なる都市の包容力を幸にして何處かに影を潛めてしまつた。近く更に新しい主義を提唱した一派は、投書家相手の雜誌に擔がれて、精神に異状を呈した者の屡々經驗する喜悦の極、足は地上を離れて天へも昇るやうな有頂天の心状に陷り、自分達丈は疑も無く生れながら惠まれた者であり、止る處を知らぬ力の進展を自己の内に認めるものだと世の中を憚らず公言したが、遠き將來はいざしらず、少くとも今日に於ては嘲笑の中に葬むられんとする状態である。
さういふ中にあつて、その主義傾向の如何を問はず、ほんとに僅少の作家ばかりが永久性を持つて居るのであるが、些かの疑も無く第一に指を屈すべきは泉鏡花先生である。
救ふ可《べか》らざる沒分曉漢《わからずや》は別として、多少なりとも文藝の作品に親しみを持つ人は、その主義や趣味の相違から慊《あきた》らず思ふ點はあるに違ひ無いが、何れにしても泉先生の作品が古典として殘ることを疑ふ者はあるまいと思ふ。かう云ふ自分自身さへ先生の作品に慊らぬ節が無いとは云へない。例之《たとへば》世間の誰も彼も口を揃へて讚美し、全體としての作品には感心しない人さへこればかりは激稱する絢爛を極めた先生の文章の如き、自分は稀なる名文だと思ふと同時に、時にふと天下の惡文では無いだらうかと疑ふ事がある。先生の作品の愛讀者の多くが隨喜する所謂江戸趣味も自分は眉をひそめ度い。
それならば泉先生の藝術の偉大さは何處にあるかといへば、それはもつと本質的なもので、即ち作者の經驗する感情――泉先生の場合には主として憧憬と反抗に根ざす――を讀者に移入し、作者の形造る感情世界に全然引入れてしまふ驚く可き魅力にある。勿論先生の作品に特有の構造、形式、色彩、音色の調整が此の使命を果す爲めに與かつて力ある事は疑ひも無いが、先生の作品が他に類例を見ない程讀者の心に影響する力を持つてゐるのは、主として先生の持つて居られる至純の感情の爲めである。
先生の作品が永久性を帶びてゐるのは、單に一時代の思潮流行と隔絶して居るからだと消極的に論じるのは誤りで、それはその作品の内に含まれて居る至純の感情が、永遠に人の心の底に潛んで居る事實に歸す可きである。何れにしても先生の作品の稀有なる魅力は、内面的にも外面的にも、讀者に與へる感化力は偉大である。自分は倦怠と憂鬱に世の中も人間も厭はしくばかり思はれた頃、先生の作品によつて眠つてゐる感情を喚醒《よびさ》まされ、生甲斐のある世界を見出した一人である。同時に自分は、作品に現れてゐる先生の惡い趣味――例之月並な惡ふざけ、安價な芝居がかり、感服出來兼る江戸がり――などの感化を受ける人間がさぞ多い事だらうと心配になる。殷鑑遠からず所謂鏡花會の人々の中などには鼻持ちもならぬ氣障《きざ》な代物《しろもの》が多いさうである。
泉先生の作品の愛讀者には先生の作品の全部を集めて所藏しなければ承知しない人の多いのも、先生の作品の魅力の異常なる事を示すものである。或人々にとつては、その作品に對する欽慕は屡々戀に等しい。自分の如きも其の一人である。
「外科室」「夜行巡査」の昔から最近に到る迄の夥しい小説戲曲小品隨筆を、單行本雜誌新聞等に初めて現れた形式でひとつも殘らず取揃へる事は殆ど不可能に思はれる。明治三十四五年頃から心掛けて、今日に到つて到底駄目だと思つた。
自分が泉先生の作品を愛讀し始めたのはそれよりもずつと前であるが、丁度中學の二年時分から學校へ通ふ往復に、三田通の書店福島屋の店頭に一日も缺かさず新刊の出るのを待暮して通つた。けれども自分がまだお伽噺を讀んで居た時代に出た單行本又は雜誌に掲載されたものを手に入れるのは、非常なる根氣と時間とを要する爲事であつた。
「新小説」「文藝倶樂部」「新著月刊」「小天地」といふやうな一流の文藝雜誌に掲載されたものは大凡手に入《はい》つたつもりでゐた。とこ
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