い。どうしても値切らなければ恥辱だと思つたのである。
 自分はそれを八錢に値切つたのか六錢に値切つたのか四錢に値切つたのか忘れてしまつたが、兎に角値切つたのである。いかにも古本は買馴れてゐるやうな顏付をしたのだつたらうと思ふ。
 茶色の釜形の帽子の中に目も鼻もかくれてゐて、色の褪めた毛糸の襟卷に顎を埋めながら身動きもしないで煙草を飮んでゐた古本屋のおやぢは、烟管をはたくのも不性つたらしい奴であつたが、
「まかりません。」
 と不機嫌な取付場の無い返事をして、又烟管をくはへた。
 未練らしく押問答をした後で、おやぢの傲岸な態度は一層自分の立場をやりきれなくしてしまつた。今更それを買ふ事は出來なくなつてしまつたが、此の一册を手に入れなければ永久に「笈摺草紙」は手に入らないやうに思はれた。それでも自分の見榮を張り度いけちな根性は、自分をしてさもそんなものは入《い》るものかといふやうな態度を執らせてしまつた。
 立上つて勢ひよく歩き出したが、どうしても思ひ切れなかつた。ふりかへつて見ると、おやぢは何處を風が吹くといつた風をして煙を吹いてゐるのであつた。
 癪に障つて堪らないので、往來の石つころを蹴飛ばした勢ひで、一町ばかり次の町筋の角迄來たが、右に行かうか左に行かうかと考へた時、どうしてももう一度後に引返して恥を忍んでも「笈摺草紙」を買はなければならないと思ふ心持が強く起つた。暫時《しばらく》躊躇した後で、自分は思ひ切つて後に引返した。
 古本屋のおやぢは依然として身動きもしないで煙草をふかして居たが、たつた五分か十分とはたたない間に「笈摺草紙」はもう賣れてしまつた。
 自分は涙の出る程なさけない心持で、古本屋のおやぢと先刻の若僧を憎んだ。なんだかしらないが、彼《あ》の若僧が故意にけちをつけて、自分の買はうとする心持を碎き、その後でまんまとせしめてしまつたやうに思はれて爲方が無かつた。けれどもそれは恐らくは自分のひがみであらう。あんな奴がそれ程に「笈摺草紙」に焦れてゐるとは想像出來ないから。
 未練らしく蓙の上の古雜誌を、もしやと思つて幾度も探してゐる自分を、古本屋のおやぢはさげすむやうに見た。
 自分は其後泉先生及び永井荷風先生の作品の出てゐる古雜誌は一切云ひ値で買ふ事にしたが、他日、「笈摺草紙」を手に入れてから十年以上もたつてゐる今日に到つて、未だ彼の神田の夜店の古本屋
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