を、極端なる英雄豪傑聖人善人と、極端なる弱蟲卑怯者佞人惡人の二派に分ける慣習があるので、その折角の偉人豪傑、又は反對の惡人極道も、人形芝居の人形よりも更に遙に人間らしさを缺いたものになり下つてしまふ。吉村忠雄氏又は次郎生が要求する處も、即ち此の人間らしからぬ人間として「先生」を描けといふに外ならない。
自分は「先生」が上野の山の砲聲を聞きながら西洋の經濟書を講義したといふ逸事や、伯爵に敍すると云ふのを拒んだといふ話などよりも、あれ程一から十迄警世の事に一身を任ねた人も家庭に於ては極端に子供を甘やかしたといふ話を聞いた時に、かへつて「先生」の人となりを懷しく思つた。自分は「先生」を曲解して、人形や土偶《でく》にはし度くない。「先生」を偉大なりと思ふ丈「先生」を人間扱ひし度いのである。
お氣の毒ながら吉村忠雄氏又は次郎生は、單に文藝を解せざる「卑賤民」であるばかりでなく、全然文字を解さないのではないかとさへ疑はれる。それは「足下は言はん、先生は然る波瀾に富んだ性行の人ではなく世に平凡なる偉人と言はれし通り頗る常識の發達せる平凡なる人であつた」といふ聞き捨てならぬ一節である。自分の「先生」の何處に「先生」を平凡人だと書いてあるか。自分は吉村忠雄氏又は次郎生の考へる如く、常識の發達した人は即ち平凡人だなどゝいふ亂暴な考へは持つて居ない。又偉大なる人は必ず奇行に富むものだなどゝいふ間違つた考へも持つて居ない。「當時の人にしては奇想天外より落つるといふ樣なことばかりされた人である」とさもほこりかに詰問者は書立ててゐるが、「先生」の偉らかつたのは、最も吾々の生活を時勢の進歩に伴はせつつ合理的に導いた事にあるのであつて、滿洲浪人や衆議院々外團のやうな奇行を賣物にする徒輩と同列に見られては堪らない。乃木將軍は腹を切つたから偉いのではない。西郷隆盛は犬を引張つて立つて居るから偉いのではない。我が「先生」は腹ごなしに米をついたから偉いのではないのである。
これで「先生」に對する答辯は濟んだから、ついでに斷つて置くが、「先生」は新作ではなくて大正一年か二年頃に、小説らしからぬ小説を書き度いといふ欲求の起り始めた時代のものである。特に末尾にその稿了の日附を記して置いたのだが、古い原稿を掲げる事は新聞社の喜ばぬところだつたと見えて、作者には無斷で削つてしまつた。
次に質問されたのは「好
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