かつたからである。
自分は、トルストイのネフリュドフに、かゝる男を比較されたのを見て、失笑を禁じる事が出來なかつた。さうして作者が此の小説に失敗したのは、つまらぬ男女の氣まぐれを、さも悲劇らしく買ひかぶつた結果だと推論した。
ちひさな事を大げさに考へる事、あんまりしつつこい物にも倦きたからお茶漬にしようといふやうな輕い事を、せつぱつまつた事のやうに考へる内容の不充實が、此の比較的に長い、當然複雜な背景を要求する小説を、平淡無味なものにしてしまつた。
たゞ面白いと思ふのは、意地張りの我儘者に對する作者の同情が、露骨に出てゐるところである。甚だ失禮な申状だが、想ふに岡田夫人は意地張りの我儘者であらう。さうしてその爲に餘計者にされる不滿と哀愁を、時に沁々感じる人であらう。その哀愁の伴ふ時、夫人は「餘計者」の冒頭數頁が持つやうな緊張した描寫を可能にし、その憤懣のみが堪へ難く荒《すさ》ぶ時、やけになる心地を夫人は切實に感じる人であらう。かゝる時、夫人は此の小説の朝子の心を經驗するのではないだらうか。
やけといへば、一體に夫人の作品には、何處かに捨鉢を喜ぶ傾向が顯《あら》はれる。それは捨鉢
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