れ、又しても殘念に思ふのである。一體、世間普通に適用する江戸ッ子といふものゝ觀念には、かういふ冷汗の出るやうなのが勢力を持つてゐるのだらうし、實際東京の人間には、多少いやな浮調子《うはつてうし》なところもある事は否めないが、自分のやうに極端に東京の人間の好きなものにとつては、かゝる種類の人間を江戸ッ子と呼ばれるのは苦痛である。正直のところ自分は、はきちがひの江戸ッ子がりの横行の爲か、近頃は江戸ッ子といふ言葉をきくと、前後の判斷も無く、直に侮蔑の念を抱くやうにさへされてしまつた。
自分は「紅雀」が、立派な戲曲を構成すべき素質を備へながら、あまり出來榮の勝れない小説となつてしまつた事を殘念に思へば思ふ丈、その小説としての價値を殊に安價にした作者の惡趣味を罵倒し度い。この自分が、甚だ強く感じた感歎と殘念とは、覘ひどころに於て秀拔で、小道具と背景、その他の外面的要件に於て劣惡な「紅雀」の持つ不思議に混亂した興味に誘はれて、二度も三度も繰返して讀ませた。
「夢子」といふ小説は、その主人公夢子の數奇な運命が、異國趣味に似た面白さを持つてゐる。殆ど神祕の國の城の中を覗くやうな冒頭の生ひ立ちの記の數頁と、その城の姫の寵愛を一身に集めた身が、父の死の爲に雨露をしのぐ處さへ無くなつて、西の都を去る邊の、豐富な※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話を持つ半生の物語は、全く外國の物語に空想をそゝられて、未知の郷土を憧憬する幼時の心持に自分を誘惑した。殊に前半の簡明でしかも行屆いた文章は、大ざつぱな心持で虚喝恫※[#「喝」の「口」に代えて「りっしんべん」、第4水準2−12−59]を事とする當時流行の作家などの到底及ばない正當な文章である。その上に、兎角綺麗事になりたがる嫌ひのある此作者としては、きび/\と力に充ちてゐる事も感歎に値《あたひ》する。けれどもそれは物語に特有の面白さである。描かれた事そのものが、直ちに實在性を帶びて吾々に迫るのではなくて、その物語が引起す吾々の心持に、より多く頼るべき性質の興味である。從て主人公が、流轉の身を東京に落着けた時から始まる昨日に變る生活を描いた處になつて、作者が物語の筆を捨て、寫實的描寫を專一に爲始めると、全く異國趣味は消えてしまつて、殆ど別の小説を讀むやうな氣になつて來た。同時に作者は、夢子その人の心持にも、囘顧的に書いた前半とは違つて、細かい洞察と温い同情を缺いてゐる。さうして此の破綻が一篇の小説を前半と後半と別々の物にしてしまつて、一貫して變らない興味を失ふ原因になつた。
立入つた話ではあるが、技巧の問題として希望すれば、夫人は此の小説を全く會話拔きで描くべき位置にあつたのだと思ふ。それが夫人の力量に最適の形式だつたやうに考へられる。さうでなければ、種々の境遇の變化の中に現れる主人公の性格を強調した心理描寫の筆を揮《ふる》ふべきであつたと思ふが、浮雲の如く去來する心持《ムウド》は描けても、より深く根ざす心理の描寫は夫人の最も不得手とするところであるから、これは無理な注文として差控へるのが至當であらう。
話は變るが自分には、夢子の意地張りなところを作者が非常に買つてゐるのが面白かつた。
「餘計者」も亦冒頭の朝子といふ女主人公が、その親、兄、姉にさへ餘計者にされたつき[#「つき」に傍点]の惡い子だつた生ひ立ちを描いたところが勝れていゝ。讀み出した時、これは立派な小説に違ひ無いと思つた。けれども「夢子」の場合と同じく、現在を描いたところになると、全く調子が狂つて、何の爲にあんな堂々たる生ひ立ちの記が必要だつたのかわからなくなつた。女が夫の家を出る動機とか、その夫との關係、その家の状態、殊に朝子その人のなぐさまぬ心状が、一切不明瞭である。若し朝子がその幼時の如く餘計者であるならば、その餘計者である事と、家を出てからの行爲との間に原因結果の關係が無ければ、折角立派な生ひ立ちの記も無用の贅物に過ぎない。
例によつて臆測を逞しくすると、作者は事實の興味に乘せられて、それ程でも無い事を一大事として取扱つたのではあるまいか。少くとも自分には、内には激しい苦悶不滿に惱み、外には不愉快な境遇の壓迫に苦しんでゐる男女とは思はれなかつた。殊に翼《たすく》といふ男は、作者が好意を以て描かうとした人間とは全然別種の人間としか考へられない。茲に作者が描かうとした人間とは即ち朝子の信じる翼だと云つても差支へあるまい。朝子は翼をトルストイの小説「復活」の主人公ネフリュドフに比べてゐる。「あのネフリュドフの眞似の出來るのは翼一人だと思つた。翼ならシベリヤまで行く位何でもなく思ふであらう。」と云つてゐる。けれども吾々が此の小説に描かれた丈で見ると、翼は「戀にやぶれ、商法に破れ、遂にみづから掛けたわなにみ
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