、寧ろそれを肯定しながら、夏子の態度は一々否定してゐるのが、かへつて吾々をして前者に反感を抱かせるのではないだらうか。つまらない事のやうだけれど、描寫論の一端として、心得べき事に思はれる。
作者が明白に「いやな奴」として取扱つてゐる夏子に對して、作者が明白に贔負にしてゐる千の助は、複雜な陰影の多い半生を背景にした人らしく所々に説明されてゐながら、結局その心持は極めて淡くしか推察されない。勿論作品の性質が寫生《スケッチ》風のものであるから、それに對して廣い背景を要求するのは無理かもしれないが、一體に夫人の作品には、背景《バック》の淺い恨みがあるので、ついでを借りて云ひ度いのである。そのかはり、此の夏の夕の一※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話は、平淡に描かれてゐる丈明るい色彩で、男も女も當代の浮世繪のやうに生々《いき/\》とした刺戟性を持つて印象を殘すのである。好きではないけれども、この點に於てうまい作品には違ひない。
うまいといふ方から行くと「雨」「お伊勢」「駒鳥」などは議論無しに推稱さるべき作品である。かういふ作品にあらはれる夫人の特質は、觀察描寫共に細緻な事である。規模の大きい或事件の進展を描いた他の小説には、夫人の最も不得意らしい心理描寫性格描寫の極めて粗雜な事が、明確に觀取されるのに、これらの短篇中の短篇にはさういふ要素を比較的に必要としない爲に、無瑕の寶玉の光を帶びてゐる。夫人は人の心の深い動搖、變化、展開を描く事には拙劣だが、或一瞬時の心の浮動は、極めて親切叮嚀に同情深く描き出す。自分が推稱する作品中の「お伊勢」「駒鳥」などは正にこの好適例である。
「雨」に至つては「八千代集」中最も短いものではあるが、同時に最も完全な短篇として第一に推讚し度い。夫人の寫生家としての冴えた手腕《うで》が、他の作品では兎もすると、押へても押へ切れない夫人特有の片意地や、あて氣や、山氣に邪魔されて、本來の光を現さないのが、此處では立派な作品を成し、しかも藝術家に有勝《ありがち》の芝居氣のまじらない純粹の人の愛が、一字一句に籠つてゐて、幾度繰返して讀んで見ても、自分は歡喜に伴ふ涙ぐましい程の心地を覺えるのである。ふと乘合せた電車の中の姉弟《きやうだい》の、その境遇性格、全生涯迄も、僅に數頁の文字の中に暗示されてゐるばかりで無く、もつと廣
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