づから掛つて苦しんでゐながら、それをも強ひて拔けようとはしないで、苦しめる丈苦しまうといふやうな男」と呼ばれる際《きは》の悲壯な男ではない。彼は戀に破れたかもしれない。しかしそれは幾多の浮氣な男がしくじつた戀と何處に相違があるのか。「ふとしたことから關係した女」と夫婦になることにも、何んの悔恨も伴はない男としか考へられない男の戀の失敗は、やがて彼が座興として人々にほこり得る程度のものに過ぎない。彼は「苦しめる丈苦しまう」としてゐるのではない。「なりゆきに任して進んでゆくより外に道はない。」といふ、持つて生れた極めて樂天的な考へから、懷疑的な反省的な人間ならば苦痛とする事さへ苦痛でなく過して行ける人間なのだ。ネフリュドフには良心の苛責があり、道徳的倫理的思索反省が常にあつた。彼がシベリヤ迄もゆかなければならなかつたのはその爲である。翼には道徳感《モオラル・センス》は無いのだ。彼がなりゆきに任して、呑氣な顏をしてゐられるのはその爲である。ネフリュドフが、どんな苦しみをも苦しまうとした心には、彼の道徳的意力の伴つてゐる事を忘れてはならない。翼がどんな事も苦にならないのは、彼には何らの道念がなかつたからである。
 自分は、トルストイのネフリュドフに、かゝる男を比較されたのを見て、失笑を禁じる事が出來なかつた。さうして作者が此の小説に失敗したのは、つまらぬ男女の氣まぐれを、さも悲劇らしく買ひかぶつた結果だと推論した。
 ちひさな事を大げさに考へる事、あんまりしつつこい物にも倦きたからお茶漬にしようといふやうな輕い事を、せつぱつまつた事のやうに考へる内容の不充實が、此の比較的に長い、當然複雜な背景を要求する小説を、平淡無味なものにしてしまつた。
 たゞ面白いと思ふのは、意地張りの我儘者に對する作者の同情が、露骨に出てゐるところである。甚だ失禮な申状だが、想ふに岡田夫人は意地張りの我儘者であらう。さうしてその爲に餘計者にされる不滿と哀愁を、時に沁々感じる人であらう。その哀愁の伴ふ時、夫人は「餘計者」の冒頭數頁が持つやうな緊張した描寫を可能にし、その憤懣のみが堪へ難く荒《すさ》ぶ時、やけになる心地を夫人は切實に感じる人であらう。かゝる時、夫人は此の小説の朝子の心を經驗するのではないだらうか。
 やけといへば、一體に夫人の作品には、何處かに捨鉢を喜ぶ傾向が顯《あら》はれる。それは捨鉢
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