徴あるが爲、好んで戲文と呼ばるる文章のかへつて沈痛悲壯の調を帶べる事具眼の士の到底否み難き事實ならずや。世上先生の態度を不眞面目なりと攻撃する者はもとより多からん、然れども余は自《みづから》左迄に藝術批判の眼識低き者とは思はず、人の呼んで先生を不眞面目なりとなす時、先生の眞面目を叫んで誇らんとするものなり。然るを先生余を目して先生の態度の不眞面目なるを甚しく攻撃[#「甚しく攻撃」に傍点]するものとなす、馬鹿々々しとて思ひ捨てんにはあまりに口惜《くちをし》く此の一文を草するに至りぬ。
 乍併《しかしながら》余が「文明」を愛讀するは一に永井先生の文章あるが爲にして、忌憚なく云へば他の諸氏の文章の多くは余の最も好まざるところのものなり。或はこれらをさして不眞面目と呼ぶ事余も亦敢て辭せざるやもしれず、先生の御説の如く「人は時として不眞面目ならん事を欲して止まず、人相寄つて談ずるや必しも口角沫を飛ばすを要せず、同士相逢うて唯笑談時の移るを忘るる事あるも亦妨げなき事」を、寧ろ當然の事として認容する余も、これらの文章を讀みては祭日の農夫の如く戲れ笑うゲヱテを想起する事思ひも及ばず、我が愛讀の「文明」
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