草の吸殻がはさみ出されて、白い灰が美しく盛りなほされた。酒の香と女の息と、火のぬくもりとで蒸さる様であつた室の温気は、一旦障子をあけひろげた掃除のあとで、すつかり新らしい空気と入れかはつた。三月の夜深の風はまだ人の肌になじまぬいらいらしさがある。あや子は身うちがぞくぞくして来たので、火鉢を抱へるやうにして顔を火の上にかざした。そしてしよざいなささうに火箸で灰のまはりをかきまはして居た。小柄ではあるが、美しい女である。黒瞳勝な目元が顔の輪郭をはつきりさせて、頬から口へかけて男らしい肉のしまりがある。
「おやお前さんおひとり。」
 女中頭のおさだが、ひよつこり障子をあけて顔を出した。
「姐さん、おはいんなさいな。」
「どうも……。」
 入口にうぢうぢしてるおさだを見て、
「姐さん。おはいんなさいよ。」あや子はまた促した。
 お定は中腰になつて、ゐざるやうにしてたうとう火鉢の傍まで来て、
「旦那は。」
「今、電話。」
「さう。お忙しいこつたわねえ。」
「ほんとよ。かうして毎晩のやうにお茶屋さんでせう。それで一時間ともゆつくりしていらつしやることが出来ないんだものね。」
「つまらないわねえ。なにもおかせぎなさらなけりやならんと云ふ方ぢやなし、全く因果だあねえ……。あら、ごめんなさい。」
「いやよ、姐さん。あたしが奥さんと云ふんぢやなし。」
「でもさうぢやないでせう。お前さんだけは別ものよ。」
「それはねえ。かうして長くおひいきになつてゐればねえ。もう四年になるんですもの。五月四日が始めての日なの。でね、今年は四年目の記念会を開くんですつて、なんでも旦那が呼んでいらつした芸者衆をすつかり集めちやつて……。あたしに白襟紋付を着ろとおつしやるの……。」
「なんだね、あやちやん。大分手ばなしだわ。」
「あら。」
 二人はくづれるやうに笑つた。
「景気がいいぢやないか。」
 松村は寒さうに肩をすぼめて入《はひ》つて来た、
「ねえ、旦那。姐さんに記念会のお話をしてた処なんですよ。」
「よせ、そんなつまらんことを。」
「つまらなかあないわね、姐さん。」
「ええ、まことにごちそうさま。」
 お定はまぜつかへしを云ひながら、そそくさと出て行つた。松村は火鉢の前にしやがんで、貧乏ゆすりをして居た。
「みつともないことよ、およしなさい。」
 女は男の膝をぐんとついた。男は思はず尻持をついた、そして何も云はずに一旦居ずまひを直したが、やがてころりと横になつて、肘を枕にした。
 二人は静に、思ひ思ひのことを胸に浮べて居た。と、あや子は忘れて居たものを思ひだしたと云ふ風で、
「今のお電話は、どなた。」
「白川だ。」松村は答へるのもうるささうであつた。
「白川さん。どうなりました。あの話は。」
「うむ。」
「おきめなすつて。」
「…………。」
「まだなの。随分前からの事ぢやありませんか。」
「………‥。」
 あんまり返辞がないので女は、男の傍へよつて顔を覗きこんだ、男はそつと目を閉ぢて、右の手を掌を上にむけて額にのせて居た。ねむつてるのではないらしい。
「旦那、旦那。」女は小声に、気遣はしげに呼んで見た。
「ちよいとおよつたらどう。」
「まあ、いい。」男はぱつちり目をあけると、女の顔があんまり近くさしよつてゐるので、むせかへるやうに感じられた。で、またそつと目を閉ぢた。
「旦那、どうかなすつて、お床《しき》をさう云ひませうか。」
「………‥。」
「姐さんを呼びませう。今夜はもうお帰りなさらない方がいいことよ。」
 かう云つた女の様子は、女中を呼びさうなけはひがあるので、男はつと起上《おきあが》つた。
「よせと云つてるぢやないか。」声はややけはしかつた。
「さう、ぢやよしますわ。けどねえ、旦那、十一時すぎてよ。」
「うむ、帰らう。」
「おかへんなさるの。さつきのお約束は反古なのねえ。」
「なにを、下らんことを云つてるのだ。」
「下らないことぢやなくつてよ。あたしにすりや大事な、大事なことなんですもの。」
 女は蓮葉にかう云つて、細い金の煙管をとりあげ、煙草をひねつて一服つけた。
 この女には惚れたと云ふことは嘗てなかつた。いや惚れたことはあつたが、飽きの来ない恋はなかつた。十五の年から二十四になる足かけ九年の間には、買はれた男も買つた男も数少くはなかつたが、男の紋所なんぞをもち物に縫ひとらせて、朋輩の者や、ともすれば、客の座敷の前でぱつぱとのろけ散らしてる時には、彼にはもう新らしい男が択まれてあるのであつた。松村とも二度手が切れて三度目に結んだ縁が今の二人にまつはつて居るのである。もとより二人ともそぞろ心であつた。けれども男が花々しく花柳界へ出入して居る間は、女の方でも油断はなく附きそつて居なければならなかつた。二人の中がその社界《しま》ぢゆうにおつぴらになつて見る
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