びきよせておいて、ついと引つ離してしまつては彼の立場は全然失はれるであらう。仮定の条件をも一度変更して来てくれと云つて白川に難題を背負《せお》はせることは残酷な仕打とも云へる。此残酷な仕打を避けて、白川に此上の難儀をかけまいとするには、俺が頭を奥田に下げさへすればいい、会社の面目の極めて小なる部分を犠牲にしてしまへばいい。
「赤誠を以つて事にあたればいいのだ。」
 松村の衷心の声はかう云つて彼の決心を促した。けれども彼はまだ懸引から抜け切ることが出来なかつた。出来る丈け体裁よく、出来る丈け有利な方法が取り得られるならば、まづ其方法に出る。結局の方針は腹の底に押し沈めて置いて、白川をして十分の苦心と努力をつくさせる。赤誠はいつでも出せる。それを出すには、今はまだ時機でない。彼はたうとう頭を擡げかかつた彼の衷心の要求を無理から押へつけてしまつた。
「それでね、桑野君ともよく打合せをして置いて下さい。僕は約束があるんで。」
松村は腰を上げた。
「東洋演芸の件ですか。」と白川は問うた。
「うん、あいつが今日纏りさうになつて来たんだがね。何しろ悪いやつが中にはひつて居るものだから、困つちまふよ。」
「どうもねえ、柄の悪いやつを相手にすると、話が困《むつ》かしいものだからね。」
「ぢや君よろしく。桑野君、いいかい。」
「え。」桑野がかう云つたとき、彼の姿のいい後影が扉の口に動いて居た。

「どうも困るなあ。」白川は、姑くたつて、独言のやうに呟いた。桑野はどこまでも真面目である。
「なんでも無いことなんですがなあ。責任を負ふときまつてしまへば、形式なんぞはどうでもいいんです。」
「しかし松村君はあんまり勝手すぎるよ。この形式だつて、一一意味が通じてあるんぢやないか。」
「処が大将も思違をして居たらしいんです。昨夜になつて、僕を電話で呼んで、手形の形式はいいかつて云ふんでせう。お指図通りに話をして置きましたと答へておいたのですが。困つたことになりましたなあ。」
「私もね。よつぽどやり込めてしまはうと思つたんだが、さうすると折角の話がめちやめちやになるし……。だが本心をつきとめて置いたからまあいいや。又一談判やるんだねえ。」
「さうです。結局やつてしまはなくちやならんのですから。大将だつてよく解つて居るんですが。」
 しかし考へて見ると、白川は慊《あきたら》なさを思はざるを得なかつた。自分のこれほどの熱心がまだ松村を動かすに足らないのであらうか。自分からいくら隔を除《と》つて向つて行つても、彼はやはり利害の友としか見てくれないのであらうか。さつき話をして居る間でも、自分と彼との地位が著しく懸けはなれて居て、自分は始から終まで圧迫され器械視されて居た様な気持がする。自分と彼とはそれほどに違はなければならない地位であらうか。彼から養家の財産をとり除いてしまへば、彼はむしろ自分の下位に立つべき人物ではあるまいか。彼に金の勢が添はつて居る計りに、自分からしてが、いくらか彼を上に見ると云ふ卑屈な心にもなり、彼からは大に低く見下ろすと云ふ高慢な心にもなるんだ。一度下手に出てしまへばどこまでも押し潰されてしまふ。潰されたままにたいした憤慨もせずに平伏してゐざりよる。これが男の面目の堪へ得る処であらうか。彼から見れば自分は何でもない。此儲話が成否何れにかきまりがつけば自分は又関係の無いものとなり、彼からは全く用のない人間として取扱はれるのであらう。さればと云つて今自分がどんな反抗的計画を企てたところで、彼を痛い目に合はすことも出来ず「白川を優遇しなければならなかつたんだ」と思ひ染《し》ませることも出来ない。小さい我を張通して断然彼の力を藉ると云ふ事のすべてを撤回してしまふか、或は何事も大呑込に呑込んでしらじらしく彼に喰ひ入つて行くか。自分にはこの二つの途しか行く処が無いのである。
「どうでもいいさ。結局。」白川は苛《いらだ》たしげにかう云つた。
「屹度やらせませう。ここは我慢のしどころですよ。さつき貴方が切込んだとき、大将の頭にぴゆつと来たやうでした。あれで腹の強い人ですから外見にはなかなか見せないが、余程苦しさうでしたよ。いや、時にね……。」
 桑野は火鉢の前に手をかざして、背を丸くしながら、少し声を細めて、
「妙な相談を持ちかけられて、僕あ思案にあまつて居ることがあるんです。」
「なんだい。大将がか。」
「いいえ。大将ぢやないんです。若いのが……。」
「細君。」
「さうです。どうせ貴方の智慧を借りたいと思つて居ましたがね。」
「どうしたんだ。」
「いやね、あの……。まあ大将が少し考へればいいんですよ。いつだつて十二時前にや帰りやしないんですからな。」
「まだ遊ぶんかねえ。先日なんだぜ『もうつまらないから止めたよ。しかしなあ、段段こすくなつてくるわあね。人の
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