かと思ふんだが……。」
「誰がなつたらいいのですか。」
「誰でもいいだらう。君の方の本人だつていいぢやないか。」
「さうですなあ。」白川はわざとよそよそしく云つて桑野の方を見ながら、
「君も知つてる通り、あの戸畑にそんなことが解らうはずがないんだ。どうもね、あんな解らない人間は滅多にありませんよ。何か一寸としたことでも話がかはると、『まあ考へて見ませう』つて、二日も三日もぢつと考へ込むんです。狸爺がなんぞ云つて、あいつがわざと解らない振りをするんだなんて云ふ人もあるがね、さうぢやないんだ。全く呑込みがわるいんだ。ここまで話が進行して来たのを、根本からひつくりかへすとすると……。」
「根本からぢやないんぢやないか。責任者はきまつてゐるんだから。」
「そこですよ。あいつは約手で振出が誰で、裏書が誰でと云ふ条件ならと云ふので承知したんです。それが変更することになると、全《まる》で違つた話になると云ふんです。それはきつとさう云ふに極つてゐるんです。」
「困つたおぢいさんだなあ。」
「それだから話が困《むつ》かしかつたんです。何でもこの行き方ですからなあ。」
二人は顔を合せて苦笑した。桑野はただ黙つて二人の云ふことを聞いて居た。白川が例の端的な気性で、ずんずん切込んで行つて、談話を議論にしてしまひやしないかと、危んで居ながらも口をさしいれる隙を見出さなかつた。松村は追々時間が経過して行くことをあせつた。十時には築地の某倶楽部に会見する約束がある。早く話を切上げてそこヘ出かけなければならない。詞の潤《うるほひ》も艶《つや》も工夫して居るのがもどかしくもなつた。
「とにかく、会社が仲裁人の位置に立つてのはおかしいぢやないか。」彼はずぼんのかくしのあたりへ無意味に手をやりながら、いくらか思切つて云つてのけると云ふ風を示してかう云つた。白川は我儘なことを云ふ男であると思つても、しかも今迄下手に出て居たのであつたが、かう云はれて見ると、一つ云ひこめてやらなければならないと云ふ気になつて来た。ふだんはおとなしい心の弱い性で居ながら、相手が嵩《かさ》にかかつて来るとなると、何ものも恐れないと云ふきかん気が此男の頭の中に燃えたつのである。
「さう貴方が云ふんなら、私の方でも一寸理窟が云つて見たくなるんだが……。」
白川は袂から手巾を取出して口のまはりを拭いた。
「一体私は貴方を苦しめに此相談を持つて来た積りではないんで、どうです俺の技倆はと云つて意張つても見たり、甘くやつてくれたと貴方から喜んで貰へると思つて、私はこの金を持つて来たんだ。」
云ひ切つたとき脈管内に湧きたつ血が頭にのぼつて行くのであらう。身うちがぞつとするやうに彼は感じた。
「しかしねえ、私は最初から事件の仲裁は貴方に頼まない。これ丈の資金があるが、何とか利殖の方法があるまいかつて君に相談したんでせう。その時私が只突然に五万円の資金があると云つた処で、君は信用しまい。それを説明する為に訴訟の関係を話した。つまり沿革を説明したんだね。君は此金を受けいれて、私に約束の報酬さへくれれば、その報酬で、私がなにをしようとも、一切自由なんだ、訴訟の解決に使はうが地所を買はうが、相場をしようが、私は貴方からかれこれ云はれる気遣はない積りなんですから……理窟を云へばまあかうだがね。」
白川がこの一転語を下したとき桑野はほつとした。白川は世馴れた口調に調子をかへて、さつきから、額に苦悶の影を漂はせながら相返答もせずに彼の議論を聞いて居た松村に
「それで結局私が聞きたいのは、君の本統の心持だ。いくら私が金主側を説破して来ても、貴方が本統にやる気がないのなら、これは駄目なことなんだ。これまでになつて此話が破れれば、私は金主に対して済まないことにもなるが、それはまだいいとして、私の本人に申訳が無いし、相手方の代理人の大草さんにも顔向けが出来なくなる。私は全く切腹道具なんです。しかし貴方を義理責にして自分だけは助かりたいとは思つて居ません。兎に角本統にやる気なんだか、どう云ふんだか、掛引のない処を云つて下さい。」
かう云つて白川は自分の本意でない方向へ話が外《そ》れて行つて、松村を正面から責めつけて行かねばならなくなつたことを、口惜しいことに思つた。
「それはやる。」
「本統ですね。」
「さうだ。本統だ。」
この時吐いた松村の呼吸は腹の底から出るやうに感じた。之が俺の本心である、どこまでもやると覚悟をしてしまへば、手形の形式はどうでもいい。もともとこの手形は外へ廻さず、取立には交換にもかけないと云ふ約束なんだから、会社の名誉が外から損はれる訳はない。奥田の裏書と云つても、もし俺が親身になつて、どうか頼むとさへ云へば、反感も除《と》れるであらうし、承諾を得ることも必ず出来得るんだ。白川をここまで誘《お》
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