て何も云はずに一旦居ずまひを直したが、やがてころりと横になつて、肘を枕にした。
二人は静に、思ひ思ひのことを胸に浮べて居た。と、あや子は忘れて居たものを思ひだしたと云ふ風で、
「今のお電話は、どなた。」
「白川だ。」松村は答へるのもうるささうであつた。
「白川さん。どうなりました。あの話は。」
「うむ。」
「おきめなすつて。」
「…………。」
「まだなの。随分前からの事ぢやありませんか。」
「………‥。」
あんまり返辞がないので女は、男の傍へよつて顔を覗きこんだ、男はそつと目を閉ぢて、右の手を掌を上にむけて額にのせて居た。ねむつてるのではないらしい。
「旦那、旦那。」女は小声に、気遣はしげに呼んで見た。
「ちよいとおよつたらどう。」
「まあ、いい。」男はぱつちり目をあけると、女の顔があんまり近くさしよつてゐるので、むせかへるやうに感じられた。で、またそつと目を閉ぢた。
「旦那、どうかなすつて、お床《しき》をさう云ひませうか。」
「………‥。」
「姐さんを呼びませう。今夜はもうお帰りなさらない方がいいことよ。」
かう云つた女の様子は、女中を呼びさうなけはひがあるので、男はつと起上《おきあが》つた。
「よせと云つてるぢやないか。」声はややけはしかつた。
「さう、ぢやよしますわ。けどねえ、旦那、十一時すぎてよ。」
「うむ、帰らう。」
「おかへんなさるの。さつきのお約束は反古なのねえ。」
「なにを、下らんことを云つてるのだ。」
「下らないことぢやなくつてよ。あたしにすりや大事な、大事なことなんですもの。」
女は蓮葉にかう云つて、細い金の煙管をとりあげ、煙草をひねつて一服つけた。
この女には惚れたと云ふことは嘗てなかつた。いや惚れたことはあつたが、飽きの来ない恋はなかつた。十五の年から二十四になる足かけ九年の間には、買はれた男も買つた男も数少くはなかつたが、男の紋所なんぞをもち物に縫ひとらせて、朋輩の者や、ともすれば、客の座敷の前でぱつぱとのろけ散らしてる時には、彼にはもう新らしい男が択まれてあるのであつた。松村とも二度手が切れて三度目に結んだ縁が今の二人にまつはつて居るのである。もとより二人ともそぞろ心であつた。けれども男が花々しく花柳界へ出入して居る間は、女の方でも油断はなく附きそつて居なければならなかつた。二人の中がその社界《しま》ぢゆうにおつぴらになつて見る
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